I. 導入――“超主人公”が量産される時代の痛覚
タイムラインが眩しい。
「成功しました」「昇進しました」「バズりました」。そんな輝度の高いハイライトが、つねにリロードされる。――だが、その背後には「光に溢れて 陰に居場所がない」という焦げついた影が累積している。ピノキオピーのボカロ曲『超主人公』(2022)は、ヒーローとモブを二項対立で迫り、〈主人公 or DIE〉という極端な選別ロジックを反復させる。ここには「勝たなければ存在しない」かのような圧迫と、「勝利の先に待ち受ける空洞」への不穏な予感とが、同時に拍動している。
本稿が本曲をいま取り上げる理由は明快だ。2020年代半ばの日本社会は、SNS 可視化競争と生成 AI の普及によって、“自我を物語化し続けること”が当たり前になった。しかし自我脚本の肥大が臨界を超えたとき、ヒーローの物語は容易にラスボスへ転化する。『超主人公』が歌う〈君〉は、称賛を欲するあまり“邪魔するモブは根絶やし”にしたいと口走り、自らの返り血が拭えぬままステージを闊歩する。
本稿は以下三つの批評概念――筆者独自の枠組みである**〈他者のリスク化〉・〈アフター系〉・〈ネガティブ・ケイパビリティ欲望〉**――を鍵に、『超主人公』が描くヒロイズムの崩落と、その瓦礫を踏みしめる私たちの足取りを読み解く。
- 〈他者のリスク化〉:2010 年代後半に顕在化。炎上・虚偽告発・無敵の人事件が頻発し、他者との関係が「癒やし」より「損傷リスク」として知覚される傾向を指す。
- 〈アフター系〉:2020 年代半ばに隆起した物語潮流。終焉や喪失を前提とし、“世界の残骸”の上で小さな営みを継続する語りを特徴とする。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』『葬送のフリーレン』などが代表例。
- 〈ネガティブ・ケイパビリティ欲望〉:同時期に浮上。“分からなさ”“未解決”そのものを抱え込む耐性を価値と見做す態度。結論よりも余白に耽溺し、曖昧さに耐える姿勢。
これら三概念は、「傷つく危険を避けて距離を取りながら、終わった物語の残響に耐え、未解決の揺らぎに快を見出す」という一本の連続線を形づくる。『超主人公』はその連続線を可視化し、聴き手の耳膜に荒々しく刻印するのである。
II. 本論――ヒーロー神話の残骸を歩く身体は、なおも“いいよ”と呟く
〈LV あげすぎて スライムの気持ちが わかんなくなっていく〉――この一節で、語り手の成長はすでに飽和している。RPG の基礎敵キャラであるスライムとの“差異”が拡大しすぎたがゆえに、成長物語はそこで終わっていた。ここで作動するのが〈アフター系〉である。すなわち、物語のクライマックス=レベルカンストを経たあともスクリーンを閉じられず、経験値バーのない旅を続ける奇妙な運動だ。成長の先には標的も報酬もなく、「World is mine」と叫んでも自己像は膨張しすぎて視界からはみ出す。やがてヒーローは、手にした“すべて”の使い道を見失い、虚無を埋めるためにさらなる称賛へ手を伸ばす。
だが称賛の供給源――すなわち他者――は同時に裂傷をもたらす。SNS が発火装置となった 2010 年代後半以降、喝采はいつでも炎上へ反転し得る爆薬と化した。ここで顕現するのが〈他者のリスク化〉である。「邪魔するモブは こっそり消したい」とは、傷つけられる前に傷つけたいという予防的暴力の欲望だ。ヒーローは輝きを保つために群衆を必要とするが、群衆はいとも簡単に自分を“悪役”に指名する――その二重の不安が、〈君に怯える 子羊いっぱい〉という倒錯を産む。ヒーロー崇拝はそのままヒーロー恐怖症へとスライドし、喝采とおびえが交互にくり返される。
しかも楽曲は執拗に「いいよ いいよ」と肯定を連打する。これは無条件の承認のようでいて、実際には諦念の相槌である。「聞いてもない成功譚 語って」「暴走するエゴ 正当化して」。ここではヒーローの自慢も凶行も、「どうせ止められない」という無力感のなかで消費される。まさに〈他者のリスク化〉下の関係性――放置こそ最適な防御という冷笑的距離感だ。
ところが終盤、物語はさらに捻れる。「世界を滅ぼしたって え!?」という唐突な断末魔が示すのは、善悪のメータが振り切れて計測不能になった世界である。ラスボス化したヒーローは、「次の主人公に 倒されてバイバイ」と自己消滅の予言を口にする。ここで芽吹くのが〈ネガティブ・ケイパビリティ欲望〉だ。ヒーロー/ラスボス/モブの序列は永久に揺れ動き、誰も最終的覇者として王座に固定されない。その不安定さこそが次のゲームを起動させ、聴き手はエンドロールを要求するのではなく、ループする不確定性を甘受する術を学ぶ。実際、曲末の「君もまた 次のラスボスじゃないかい?」は、聴き手すら無限の椅子取りゲームに巻き込む誘惑/脅迫である。
かくして『超主人公』は、〈他者のリスク化〉が招く予防暴力、〈アフター系〉が抱える終幕後の漂流、〈ネガティブ・ケイパビリティ欲望〉が希求する未決着の姿勢――これら三層を有機的に重ね合わせ、ヒロイズムという神話装置の廃墟をサウンドで歩かせる。その掛け声は勝利を告げる雄叫びではなく、なお続く余震のような揺れに過ぎず、私たち観客は崩れた足場の上で身をかわしながら踊る生存者にすぎない。
III. 結論――“ラスボスなき時代”を生き延びる物語の余白へ
『超主人公』が照射するのは、頂点を射貫いてなお終わらない競争の虚ろさである。輝かしいハイライトの背でカタストロフィが進行し、拍手と返り血が同じリズムで飛沫する。その風景は、SNS 世代の私たちに既視感を喚起する――スクロールを止められず、主語を肥大させ、失速の怖さを隠蔽して語彙を過剰充填する自画像だ。
ではこのあと、どこへ向かうのか。ヒーロー神話がラスボス化を繰り返す無限ループを抜けるために、私たちはただ降りるのか。それとも瓦礫の上で小さな火を囲い、微温な営みを継ぐのか。――答えは示されない。ただ、〈いいよ〉と繰り返す空疎な承認を手放し、**「分からなさを抱えたまま立ち止まる能力=ネガティブ・ケイパビリティ」を練習することが、唯一の出口になるかもしれない。 もしかすると、その練習風景こそが“次の物語”のプロローグだ。主人公かモブかを競うのではなく、序列なき場所で肩を並べる名もなき時間。そこでは、ヒーローもラスボスも役割札を剥がされ、ただの人間として震えを共有するだろう。『超主人公』が残す轟音の余白には、そんなささやかな連帯の種子がまだ蒔かれている。あとは――スクロールを止め、夜更けのモニターに映る“主人公 or DIE”の選択肢を、そっと閉じる勇気をあなたが持てるかどうか。その瞬間、ヒーロー神話の残骸の下から、新しい物語の芽がひっそりと顔を出すはずだ。
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