I. 導入──『山田PERFECT』が問いかける完全性の孤独──「自己の希薄化」と「他者のリスク化」から読み解く現代のアイロニー
jon-YAKITORYの『山田PERFECT』は、2023年に発表されたオリジナルのボカロ楽曲である。この作品は、一見するとキャッチーなリズムとポップなサウンドで彩られているが、その歌詞は「完全体」という皮肉な自己認識を通じて現代人の孤独と虚無感を鋭く描き出している。「完全体」を謳いながら、自己の充実ではなくむしろ空虚さや「つまらなさ」を繰り返し強調することで、現代社会に蔓延する自己認識の歪みや疲弊を象徴的に提示している。
この曲を今取り上げる意義は、SNSをはじめとしたデジタル空間での自己表現が日常化した2020年代の社会において、「完璧さ」を追い求める圧力がかえって自己を孤立させているという問題意識にある。特にインフルエンサーやクリエイターなど、他者の視線を常に意識する人々が抱える葛藤をリアルに表現している点が時代的に重要である。
本記事では、この問題を掘り下げるため、筆者独自の批評概念である「自己の希薄化」と「他者のリスク化」の二つを用いる。「自己の希薄化」とは、1990年代以降、共同体意識の衰退とともに複数の人格(キャラ)を状況に応じて使い分けるようになった結果、自己という存在が希釈化した状態を指す。一方、「他者のリスク化」は、2010年代以降、その希薄化した自己と細分化した他者像との関係性が悪化し、他者が喜びの源泉ではなく「リスク」として認識されるようになった現象を指す。
本論では、これら二つの批評概念を通じて、『山田PERFECT』がなぜ「完全」であることを自嘲し、かつ拒絶するのか、そのアイロニカルな表現がいかに現代の病理を映し出しているのかを分析する。
II. 本論──『山田PERFECT』が描く完全性のジレンマ──「自己の希薄化」と「他者のリスク化」が織りなす現代的アイデンティティの危機
まず、本論の核となる概念である「自己の希薄化」について改めて定義を確認しよう。「自己の希薄化」とは、1990年代以降、「大きな物語」の崩壊や共同体的意識の喪失に伴い、人々がさまざまな「キャラ」を使い分けるようになった結果、「一枚岩」としての自己が薄まり、多元的かつ断片的にしか存在できなくなった状態を指す。これはSNS時代においてますます顕著となり、人々は自己を明確なアイコンとして固定することを避けるようになった。こうした傾向は、Vtuberやインフルエンサーなど自己をデジタル空間でパフォーマンス化する文化が主流となる中で、ますます加速している。
この「自己の希薄化」という現象を背景に、『山田PERFECT』の歌詞を分析してみよう。主人公は「”完全体”への愛 絡まって/何が正解かわからないんだ」と歌い、自己の理想像に向けて無限に近づきつつも、その達成がむしろ虚しさを生むという逆説を表現している。ここでの「完全体」とは、デジタル社会において絶え間ない承認欲求に晒され、理想化された自分像を常に提示し続けなければならない人々の象徴である。理想像を追求する行為そのものが、「自己の希薄化」によって真の自己から乖離し、虚しさや孤独感を増幅させていく。
次に、「他者のリスク化」という概念を導入しよう。この言葉は2010年代から2020年代にかけて、社会が多様化・細分化した結果、他者がもはや単純に喜びや幸福の源泉とは見なされず、むしろ自身を脅かす存在としてリスク化してしまった状況を指している。特にネット空間での炎上や誹謗中傷の問題に象徴されるように、現代人にとって他者とは自己承認を与えてくれる存在でありつつも、いつでも自己を攻撃しうる危険な存在として認識されるようになった。
この「他者のリスク化」は『山田PERFECT』の中で次のように表現されている。「勝手に期待してそして/なんか違えば捨ててくんだ/本当ヒトって救えないよな/酷すぎるだろ」という歌詞に示されるように、他者の承認が突然拒絶や攻撃に転じる可能性があることを認識し、その不安を吐露している。ここには承認欲求を満たすために他者に依存しながらも、他者が持つ潜在的リスクに怯える矛盾した心理が描かれている。
では、ここで他の類似作品との比較を通じて、この問題の理解を深めてみよう。たとえばYOASOBIの『アイドル』という楽曲は、自己を完璧なイメージとして他者に提供し続けなければならないアイドルの苦悩を描いている。『アイドル』においても「完璧」を求められる主人公は、自身の本音や弱さを決して見せることができず、その結果として自己が希薄化し、最終的には悲劇的な孤独へと陥る。『山田PERFECT』はこのような作品群と共通して、現代の自己承認欲求と他者依存のリスクを象徴的に表現しているが、『アイドル』が悲劇性を強調しているのに対して、『山田PERFECT』はむしろアイロニーや皮肉を通じて問題を提示する点で異なる。すなわち、完全性への欲求と、それによって生まれる自己と他者との歪んだ関係性が、両作で異なるスタイルで描かれているのである。
つまり、『山田PERFECT』が描いているのは、現代人が陥りがちな「完全であること」という理想に縛られた自己と、承認を求めながらもリスクとして認識される他者との間の深刻な葛藤である。歌詞に繰り返し登場する「完全体」のイメージは、他者の期待に応え続けることでのみ価値を感じるという歪んだ自己認識の象徴であり、これがむしろ孤独を強化し、自己を脆弱化させるプロセスを描いている。
一方、この曲の最終盤では「完全体だけども未完成なマイライフ/もう少しだけ続くんじゃ 残機/ニヒル辞めて超人も辞めてさ/優しくなろう」という一節が登場する。このフレーズは完全性の追求を一度放棄し、人間らしい不完全さを受け入れ、自己や他者との新たな関係性を模索しようとする姿勢を示唆している。自己の希薄化と他者のリスク化に苦しむ現代人への解決の糸口として、本作は「完全性」を追求することを止め、不完全さや脆弱さを許容する余地を提案しているのである。
以上の分析から、『山田PERFECT』は、完全性を追求することがもたらす現代的なアイデンティティの危機と、その危機から抜け出すための新たな視点を提供しているといえるだろう。歌詞に潜むアイロニーや皮肉を通じて、「自己の希薄化」と「他者のリスク化」の相互作用を描き出し、完璧を追い求める現代社会への批評を鮮やかに提示している。次節では、本論で明らかにしたこれらの批評的視点をさらに掘り下げつつ、結論と共に読者に問いかけを投げかけたい。
III. 結論──不完全さを抱きしめる勇気──「完全」であることを超えた先に
『山田PERFECT』を通じて私たちは、「自己の希薄化」と「他者のリスク化」がもたらす現代的な孤独と空虚のメカニズムを確認してきた。「完全体」という皮肉めいた理想像が、逆説的に自己の不安定さを増幅させ、他者との関係をより脆弱にしていく様子を見て取ることができる。この楽曲が突きつけるのは、完璧さを追求すればするほど、むしろ人間は自らの実存を失い、他者との真のつながりも遠ざかってしまうという苦い真実である。
しかし、だからこそ、この曲の最後に示される「ニヒル辞めて超人も辞めてさ/優しくなろう」という一節が重要な意味を持つ。完全であることの放棄は、決して敗北や諦めではなく、むしろ人間らしい脆さや未完成さを受容する勇気だと捉えることができる。完璧であることよりも、自分自身の不完全さを抱きしめ、他者のリスクを引き受ける覚悟こそが、現代人が真に求めるべき価値観なのかもしれない。 ただし、ここに一つの問いが残る。自己や他者への期待を捨て去ったその先で、私たちは本当に安息を見出すことができるのだろうか。それとも、また新たな理想や承認欲求が私たちを捕らえてしまうのだろうか。『山田PERFECT』は明確な答えを提示しない。その答えを探す旅路は、私たち一人ひとりに委ねられているのである。
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