【歌詞考察】『アンノウン・マザーグース』言葉になる前の心のために

wowaka

あなたが「見えるか」と問いかける理由

あなたが『アンノウン・マザーグース』を好きな理由は、たぶん、その叫びが「あなた自身の声」でもあると、どこかで感じているからだ。
誰かに「それでも好きと言えたなら」と願い、届かなくても叫ぶ。見えなくても、「見えるか」と問い続ける。この歌詞の語り手は、絶望のふちで言葉を手放さなかった人間の姿をしている。そして、そんな語り手に、あなた自身がどこかで似てしまったことがあるのではないか。

この楽曲には、「孤独」や「心の傷」といったありきたりな言葉では語りきれない切実さがある。語り手は、言葉が余るほどあっても「うまく言えない」ものに苦しんでいる。叫びたいのに、黙ることしかできない夜。その沈黙を何度も呑み込んできた人にとって、「愛を語るのなら」という冒頭のフレーズは、まるで喉元に詰まったままの言葉を代弁してくれるかのようだ。

この曲は、「語られなかった想い」への祈りのようでもある。見捨てられた気持ち、繰り返し壊されてきた自己像、信じても信じても裏切られる他者。それでもなお「この唄で明かしてみようと思うんだよ」と言える、その震えるような決意。その姿に、あなたは自分の「痛みのかたち」を重ねる。
『アンノウン・マザーグース』の歌詞は、単なる自我の叫びではない。それは、誰にも気づかれずに生きてきた“あなた”を、ようやく誰かが見つけてくれるような瞬間の詩である。

本論――傷ついた声が、それでも世界を歌うとき

1. 構造分析──繰り返しの中で「私」と「あなた」は入れ替わる

『アンノウン・マザーグース』の歌詞構造は、明確な時制よりも〈連なり〉と〈反復〉に特徴がある。特に、「あなたには僕が見えるか?」という問いが複数回配置される中で、語り手の一人称が「あたし」と「僕」をまたいで揺れている点が象徴的だ。これにより、語り手は固定的な「自分」を保たない。むしろ、誰かの視線に揺さぶられながら、〈見えるか?〉と何度も確かめるしかない存在として描かれている。

また、Aメロとサビのあいだに大きな温度差がある。Aメロでは〈詞が有り余る〉、〈使い回しの歌〉といった冷めた語彙が並び、音楽や言葉の消費性を冷笑的に描いている。だが、サビでは「壊れそうなくらいに抱きしめて」「泣き踊った」といった爆発的な感情の言語が噴出する。この落差は、抑圧されたまま沈殿していた“本当の声”が、堰を切って溢れ出す瞬間の力強さを際立たせている。

この構成は、「見境のない感情論」や「心をつまはじきにしてしまう」ほどの痛みを抱えた語り手が、自身の言葉でどうしても語らなければならなかったという緊迫感を生み出している。構造的な強度は、決して理性的な論理ではなく、言葉にすらならない感情の累積に根ざしているのだ。


2. フレーズ精読──「好きを願えたら」と「その灯」とのあいだで

この楽曲の核心をなす問いかけは「あなたには僕が見えるか?」というフレーズに集約される。この問いは、存在の確認であると同時に、過去に何度も見捨てられてきた経験の裏返しでもある。しかも、その直前に語られるのは〈ガラクタばかり投げつけられてきたその背中〉である。「僕が見えるか?」という問いは、単なる相互認知を求めるものではない。それは、砕かれた過去の蓄積をも引き受けたうえで、それでもなお“あなた”に見ていてほしいという、強い切望のかたちである。

この痛切な呼びかけに続いて現れるのが、「それでも好きを願えたら」「あたしの全部にその意味はあると」という肯定のための条件文だ。この〈好きを願う〉という語法は、「好き」と言い切ることすら難しい語り手の、臆病であるがゆえに真摯な姿勢を映している。「愛してる」と叫ぶのではなく、「好きを願う」ことしかできない──そこには、暴力にも、強引な承認欲求にもならず、相手を壊さない愛の形式が模索されている。

さらに後半で語られる「心のはこを抉じ開けて 生き写しのあなた見せて?」というフレーズは、非常に特異である。語り手は〈見てほしい〉存在であると同時に、〈見ることを求める〉側にも立っている。この相互的な観測は、「あなたには僕が見えるか?」という再帰的な問いの変奏であり、自他の境界を震わせながら、「ほんとうの愛」が生まれる可能性を模索しているように思える。

また、「孤独なんて記号では収まらない」「心臓を抱えて生きてきたんだ」とは、現代的な自己の言語化不全に対する抗議でもある。SNS的な記号化、類型化に対して、この語り手はあくまでも〈心臓〉という名の非言語的な身体感覚で語ろうとする。だからこそ、この歌は美しいのではなく、ひたすらに「痛い」のだ。


3. 社会状況との照合──言葉が溢れすぎた時代に生きる「透明な声」

『アンノウン・マザーグース』が強い共鳴を呼ぶ理由のひとつに、「言葉が余っている社会」への批判と、それでも言葉を捨てられない苦悩の共存がある。

この語り手は、明確な敵を設定して戦ってはいない。むしろ、〈ドッペルもどきが溢れた〉世界に呑まれ、自らもまたその一部として生きてしまったことを知っている。「使い回しの歌に耳を塞いだ」とあるように、表現のインフレーション、他人の感情の複製・模倣が日常になった時代に、オリジナルの声など存在しえないのではないか──そんな諦念が漂う。

しかし、それでもこの語り手は「この唄で明かしてみようと思うんだよ」と言う。誰にも気づかれない想いであっても、「灯」のように、誰かの行く末を照らすかもしれないという希望が捨てられていない。その灯は、炎のような熱ではなく、壊れかけた電子機器の中にかすかに残った通電のように、か細く、そして確かである。

現代において親密性は失われた。LINEの既読、DMの返信、ブロックやミュートといった非同期の関係のなかで、人は他者と触れ合うことを避けながら、それでも誰かに見てほしいと願い続けている。『アンノウン・マザーグース』は、まさにその矛盾のただなかにいる「透明な声」を肯定する。そして、言葉が効力を失いかけたこの時代にあっても、「言葉を尽くすこと」をやめない者たちへの祈りとして響いている。

結論――「それでも、歌いたい」という声のために

『アンノウン・マザーグース』の歌詞には、「それでも」という言葉が何度も聴こえる。
傷ついた過去がある。それでも。
誰にも見つけられなかった。それでも。
言葉が効かない時代に生きている。それでも。
──歌いたい。伝えたい。見つけてほしい。

この曲は、そう願いながら生きる人たちの「諦められない声」を代弁してくれる。感情を論理で割り切ることも、記号に置き換えることもできない、あまりに不器用な魂の揺らぎ。その痛みと美しさが、この作品の核心にある。

あなたがこの歌に共感した理由は、その語り手が「叫ぶしかなかった誰か」だったからではないか。そして今、あなた自身が誰にも届かない想いを抱えているのなら、『アンノウン・マザーグース』はあなたの声でもある。
言葉にするのが怖かった気持ち、誰かに見つけてほしかった沈黙──それらはもう、歌のなかで語られていた。

この歌があなたに代わって語ってくれる。
「ここに、ちゃんとあなたがいるんだ」と。

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