【歌詞考察】Eight『とても素敵な六月でした』倫理が透明になるとき

Eight

I. はじめに――「声にならない怒り」を抱えたあなたへ

壊れたのは、あなただけではない。
だが、誰もそれを壊れたとは呼ばなかった。

『とても素敵な六月でした』の歌詞は、ある種の破局を描いている──だがそれは劇的な断絶ではなく、既に終わってしまった何かの上に立ち尽くすような感覚に近い。「潰された私の体躯は酷く脆い固形と化して」「音ひとつしない市街地で」語り手は、不祥事とも言うべき不正や暴力に呪詛を吐く。しかしそれは大声ではなく、無音の市街に溶け込むような、内にこもった呟きにすぎない。

ここには、「怒ること」が許されなかった人間の姿がある。叫びは許されず、代わりに透明さや無彩色といった言葉で覆い隠されていく。言葉にならない感情は、象徴や比喩を通してしか浮かび上がることができない。飛行機雲、夏風、白銀、回転木馬──すべてが「誰かに届いてほしかった感情」の亡霊のように浮遊している。

この曲が掬い上げようとしているのは、社会の不正義にさらされながら、それでも何かを信じようとした語り手の姿である。怒り、悲しみ、諦念──それらははっきりと叫ばれることなく、霞のように流れていく。だが、最後の「また会いましょう」という言葉は、ほんのわずかに残った人間性の名残であり、傷ついた者だけが言える希望のかたちでもある。

この批評では、怒りの声にならなさを中心に、語り手の感情の運動を追いかけていく。その先に、読者自身が抱えてきた「言えなさ」が静かに重なることを願いながら。

II-A. 静けさの中で咆哮する構造──歌詞の運動と時間軸

『とても素敵な六月でした』の歌詞は、明確な時制の転換や因果関係を示さない。それゆえ、聴き手はまるで「出来事の残響」だけを拾い集めるような読解を強いられる。歌詞の中心を貫いているのは、すでに破綻した世界における語り手の存在であり、そこには明快な始まりや終わりはない。むしろ、冒頭から終末後の光景に立ち尽くしている。

Aメロでは「潰された私の体躯」「無音の市街地」といったイメージが用いられ、語り手は外的世界との断絶を示す。しかし、続くBメロやサビでは、「夏風」「飛行機雲」といった風景が交錯し、まるで時間が一時的に回復しているかのような錯覚が生まれる。これはおそらく、語り手の中で繰り返される“記憶のリフレイン”であり、過去と現在、夢と現実が区別を失っていく。

また、語り手の視点は一貫して“誰か”に向けられている。「あなたは吠えている」「あなたは泣いていた」という表現に見られるように、語りは常にもう一人の存在と対になって進む。ただし、この「あなた」は決して特定されない。実在する他者なのか、過去の自分なのか、それとも社会そのものなのか──その曖昧さこそが、この楽曲の核心にある。

II-B. 呪詛と祈りのあいだにある言葉たち──語彙の選択と感情のねじれ

「潰された私の体躯は酷く脆い固形と化して」──この一行には、語り手がすでに「人間としての機能」を失っているという深い自覚が刻まれている。「潰された」という受動態と、「固形」という異質な語彙の組み合わせが、痛みを物質化し、それ以上の語りを拒む。ここには、自らの損傷をもはや語る言葉すら持たない状態が示されている。被害の直接性は抑えられながらも、「呪う」という語の選択により、その根源が他者や社会にあることがほのめかされる。

続く「道徳の向こう側であなたは吠えている」という描写は、「道徳」という抽象的な境界線の踏み越えを示しているが、吠えているのは語り手ではなく“あなた”だ。ここで「あなた」は、倫理の瓦解に伴い暴走する何かを象徴しているように見える。語り手自身はその姿を冷静に観測し、「淡泊な言葉の裏側が透けている」と見抜いている。この透過性の感覚は、のちに「醜い透明」「灰色の心」といった比喩で反復されてゆく。つまり、語り手にとって世界は、あまりに見えすぎてしまう場所なのだ。

サビに登場する「薫る夏風」「飛行機雲」「死神が泣いていた」という一連のイメージは、一見すると抒情的だが、その実、強烈な自己喪失の記憶と結びついている。飛行機雲は空を裂くように伸びてはすぐに消える軌跡であり、儚く、そして不穏だ。「始まりの合図が轟いて咽ぶ飛行機雲」というフレーズは、何かが始まった瞬間、それがもう終わりの予兆でもあったという逆説を抱えている。

さらに、「草臥れた回転木馬」「欺瞞の産物」「仕組まれた惨劇」などの語群に現れるのは、世界そのものが作為に満ち、信頼に値しないものであるという深い不信感である。そこに咲いた「蓮華」が「枯れる」という展開は、宗教的・仏教的象徴を借りながらも、救済が訪れないことの諦念を裏打ちしている。

終盤に向けて、語り手の言葉は徐々に鋭さを帯びていく。「湿る街角に飛び散った抉る感覚」「吠える迷子犬を葬って」「黒煙の立つ空」──これらは、もはや象徴を超えた暴力的な具体性である。しかしその暴力は他者へと向けられるのではなく、自らの感情を「抉る」行為として立ち現れている。語り手は何かを壊したいのではない。むしろ、「この世界が終わるならば、あっけないくらいでいい」と呟くように、終わりの無常を受け入れているのだ。

それでも最後に置かれるのは、「また会いましょう」という言葉である。これは明らかな違和感を孕んだ別れの挨拶だ。「さよなら」ではなく、「透過」した関係の先に再会を仄めかす。語り手は誰かと本当に再会できるとは信じていない。それでも「また会いましょう」と言わずにはいられない──この言葉の背後には、人間が人間であることをやめきれない哀しみと祈りがある。

II-C. 「透明な咆哮」が選ばれる時代──現代社会との照応

『とても素敵な六月でした』の語り手が選び取ったのは、直接的な叫びではなく、比喩と沈黙を織り交ぜた「透明な咆哮」だった。この語り方は、いま私たちが生きている社会──とりわけ、告発することすらリスクとされる時代において、きわめて象徴的である。

現代社会では、「怒り」や「痛み」の表明がたやすく嘲笑や同調圧力の対象となる。SNSで声を上げれば「被害者ぶるな」と切り捨てられ、理不尽を語れば「考えすぎ」と笑われる。そんな状況のなかで、語り手のように怒りを呑み込み、象徴的な表現に変換して吐き出すことは、ひとつの生存戦略であるとさえいえる。

さらに、「道徳の向こう側」や「綺麗事で回る膿んだ世界」といったフレーズは、いまや形骸化した社会規範や、うわべだけの共感が跋扈する現実への深い不信を示している。これは単なる自己憐憫ではない。語り手が問いかけるのは、「誰が正義を語る資格があるのか」という、倫理的空白の中に立ち尽くす感情である。

加えて、サビに繰り返される「飛行機雲」や「夏風」は、どこか懐かしく美しいイメージであるにもかかわらず、それが語られる場面は常に絶望の只中だ。これは、感傷がもはや回復の契機になり得ない社会を映している。記憶の中の美しさすら、現実を癒す力にはならない。それでも「また会いましょう」と言う語り手は、希望ではなく「未練」に近い何かを手放せずにいる。

このように、この楽曲の歌詞は、現代社会における“語れなさ”“訴えられなさ”を内包した、きわめて時代的な表現である。静けさのなかに漂う怒りと問いかけは、まさに〈いま〉を生きる私たちの言葉にならなかった感情を反射している。

III. 結論――「また会いましょう」に託されたもの

『とても素敵な六月でした』というタイトルは、皮肉にも聞こえるし、ひそやかな祈りのようにも響く。歌詞のどこを探しても「素敵」な出来事は描かれていない。それでも語り手はその月を「素敵だった」と名指す。おそらくそれは、ひどく歪んだ現実のなかに、どうにかして意味を与えようとする行為──傷を「思い出」として架空の棚にしまい込む、最後の感情処理なのだ。

この曲に共感したあなたは、きっと世界に対して怒りを持っていた。しかしその怒りはあまりに深く、あまりに個人的で、どこにもぶつける場所がなかった。語り手のように、言葉にならない痛みを誰にも知られないまま抱え、ただ景色だけが過ぎていく時間のなかで、自分の輪郭すら薄れていく感覚を味わったことがあるのではないだろうか。

だからこそ、この曲の終わりに差し出される「また会いましょう」は、ただの別れの言葉ではない。赦されなかった怒りや、行き場を失った感情が、それでも人間性を手放さないために選び取った、最小限の優しさなのだ。

あなたが誰にも言えなかったこと。この歌詞は、すでにそれを語っている。
そしてその感情がまだ胸に残っているかぎり、語り手とも、過去の自分とも、いつかまた会えるはずだ。

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