【歌詞考察】wowaka『裏表ラバーズ』壊れた愛のテンション

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I. 導入――過剰なテンションの裏で、言葉は崩れていく

恋をしているのか、それともただ脳が暴走しているのか。『裏表ラバーズ』は、その区別すらつかないような状態を疾走感のあるビートに乗せて描く。気持ちが高ぶっているのに、思考は分裂し、感情の発火点と着地点が一致しない。そのズレこそがこの歌の核心にある。

「会いたい」とはっきり言えないのではない。言う前に感情が別の方向へ逸れていくのだ。「自問自答、自問他答、他問自答」──自己と他者の区別すら曖昧になったまま、問いだけが次々と生成されていく。制御不能の内的環境は、まるでラブという化学反応によって爆発寸前のフラスコのようだ。

快楽を求めて触れたのに、すぐ痛みが追いかけてくる。それでも触れたいと思ってしまうのは、本能が感情の整合性を凌駕するからだろう。現実逃避と現実直視の境目もすでに消え、語り手はただ「どこかに良いことないかな」と問うしかない。

この歌に引き寄せられる感覚は、派手な表現や強い言葉の背後にある「まとまらなさ」への共感だ。言葉にならない焦燥、テンションの空転、愛を叫ぶふりをしながら、それが愛かどうかすら自信が持てない状態。『裏表ラバーズ』は、その曖昧で過剰な感情の奔流を、壊れたまま肯定する歌である。

II. 本論――感情が構造を破壊するとき

分裂する視点、逸脱するテンション

『裏表ラバーズ』の歌詞は、典型的なAメロ・Bメロ・サビといった構造を持ちながら、その内部では明確な破綻が起きている。冒頭は「良いこと尽くめの夢から覚めた私」と、過去から現在への転調で始まるが、主語や視点は一貫性を持たないまま次々に変化し、語り手の内部も「2つに裂けた心内環境」として描写される。

時制は「覚めた」「侵されてしまいまして」など、すでに過去形で回顧的でありながら、思考は現在進行形で迷走し続ける。視点は自己の内面に沈潜しつつも、「どこかに良いことないかな」と他者や外界への希求を孕み、絶えず揺れ動く。呼びかけの相手は存在せず、全編を通じて対話は自己内部で完結している。

サビにあたる〈もーラブラブでいっちゃってよ!〉の部分では、語りの文法がさらに崩れ、テンションの高揚が意味の輪郭を曖昧にする。言葉の勢いが感情の実体を上書きし、音と言葉が乖離しはじめるこの瞬間、語り手はすでに言語化可能な欲望や愛から遠ざかっている。それは、言葉が言葉として機能する限界線でもある。

過剰さの中に隠された「伝えなさ」

「ラブという得体の知れないものに侵されてしまいまして」という奇妙な言い回しは、この歌の語り手が、恋愛感情を自己発のものとしてではなく、外的要因として到来する災厄のように捉えていることを示している。主体の内部から湧き上がる感情というより、「ラブ」は侵襲的に現れ、脳内環境を支配してしまうウイルスのような存在なのだ。

この感覚は続く「どうしようもなく2つに裂けた心内環境」や、「制御するためのリミッターなどを掛けるというわけにもいかない」というフレーズに顕著に現れている。語り手は感情を抱えすぎているのではない。感情に裂かれすぎて、自我の一貫性を保てなくなっている。それゆえ、ラブソングであれば当然のはずの「好き」「会いたい」といった言葉が、意図的に排除される。

「自問自答、自問他答、他問自答連れ回し」という捻れた言語連鎖は、問いの応答先が失われた状態を端的に示す。自己との対話が他者を巻き込み、しかし他者からの返答も自己の声として吸収されてしまう。ここには、対話の擬態をした独白があるだけで、実質的なコミュニケーションは発生していない。

そして、もっとも爆発的で衝動的なパート──「触って,喘いで,天にも昇れる気になって」──においても、「気になって」と言い添えられることで、その高揚感は本物ではないと語り手自らが否定している。「気になって」は確信ではなく、気の迷い、あるいは演技に近い。ここでの肉体的接触や官能的な語彙は、むしろ虚無を埋めようとする過剰として立ち現れる。

「等身大の裏・表」「網膜の上に貼っちゃって」といった視覚・身体をめぐる語彙もまた、語り手の感情が本質的に自己演出と現実認知のあいだでねじれていることを示唆している。自分の感じていることが本当かどうか、それを他人にどう見せるか、その演出のプロセス自体に不安と混乱が入り混じっている。

極めつけは、「もーラブラブでいっちゃってよ!」という言葉だ。テンションは高い。だが、直後に続くのは「会いたいたいない、無い!」という否定の爆発である。「たい」と「ない」が並置されることで、願望と否認が同時に存在する。それはまさに、「愛」を語りながら「愛せない」状態であり、「触れたい」と言いながら「痛いから無理」だという、<br>人格の内部矛盾が極限まで噴出した地点にほかならない。

語り手は決してふざけているのではない。「感情を語り得ない自分」を、感情過多な言葉で必死に塗りつぶしているのである。だからこの歌は、恋愛の肯定でも否定でもない。肯定を演じながら、その無理を自覚している存在──言い換えれば、爆発しながら自己破壊を寸前で踏みとどまっている人格の告白である。

加速しすぎた「愛」に、身体が追いつかない時代

『裏表ラバーズ』が鳴らす混線した言葉と感情の洪水は、ひとりの人格の暴走ではなく、むしろ現代という時代の速度感がそのまま反映された現象である。語り手は、自らの意志で「愛」へと向かっているのではない。愛という言葉のかたちをしたテンプレートが、SNSや映像文化を通して過剰に供給され、強制的に内面へと流れ込んでいる

誰かを「好き」になることが、もはや自分の感情の選択ではなく、演じるべきムーブメントとして先行してしまう。この歌詞の語り手が「触って,喘いで,天にも昇れる気になって」と語るとき、そこには明らかにフェイクされた官能が潜んでいる。自分自身の感情を検証する余裕もなく、感情が先に決まってしまっている世界で、人はその内実を埋めるふりをしなければならない。

また、「現実直視と現実逃避の表裏一体なこの心臓」という一節は、情報過多の社会がもたらす選択不能な同時多発性に通じる。目を背けたくても、視界からは逃れられない。「逃避」すらリアルタイムで実況される時代において、誰もが「見るふり」と「見ないふり」の間で揺れている。語り手はそのただなかで、感情を操作されるままに崩壊寸前のテンションを維持しているにすぎない。

こうした状況において、恋愛感情はもはや純粋なものではあり得ない。欲望は、パーソナリティの発露ではなく、社会的に設計された反応のひとつとして埋め込まれている。だからこそ語り手は、「ラブという得体の知れないもの」としか言えないのだ。それは、外部から投下されたコードに過ぎない。

『裏表ラバーズ』が描いているのは、過剰な情報と感情のテンプレートに飲まれ、感情を自前で生成できなくなった人格の姿である。そしてそのような人格は、もはや特異ではない。私たちの多くが、気づかぬうちにその座標にいるのかもしれない。

III. 結論――「愛してる」は、誰の言葉だったのか

『裏表ラバーズ』は、恋の歌に見せかけた自己崩壊の記録である。テンションの高さ、語彙の派手さ、音楽的な疾走感――それらすべてが、言葉にならなかった焦燥や違和感を覆い隠すための仮面として存在している。だからこそ、聴き終えたあとに残るのは快感ではなく、理解されなかったという寂しさだ。

語り手は「ラブラブでいっちゃってよ!」と叫ぶが、その直後には「会いたいたいない、無い!」という否定の裂け目が口を開ける。そこにあるのは、愛の喪失ではなく、愛そのものへの不信である。何を信じればよかったのか。誰に触れれば正しかったのか。その問いに、誰も明確な答えをくれなかった。

この歌詞が、あなたの内側で何かをざわつかせるのだとすれば、それはきっと、あなたもまた「本当の感情が分からなくなる瞬間」を知っているからだ。ラブという言葉に期待し、同時に裏切られ、でも信じたいと思ってしまう。その矛盾を無理に整えようとせず、矛盾のまま叫ぶ語り手の姿に、あなたは自分の輪郭を見出しているのかもしれない。

『裏表ラバーズ』は、答えをくれる歌ではない。ただ、壊れたまま語り続けることで、壊れている誰かを孤独から救う。その誰かとは、他ならぬあなたである。

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