【歌詞考察】柊キライ『ボッカデラベリタ』不在の愛と依存の構造

柊キライ

「私は“君”がいなければ無い」——他者依存の迷宮としての『ボッカデラベリタ』

柊キライによる『ボッカデラベリタ』は、語義を裏切る音と、意味の縁に留まり続ける言葉によって編まれた、自己と他者の不調和な戯れである。「君がいなけりゃあたしは無い」という強烈な一文を核に、この楽曲は徹底して自己同一性の空虚さを告白しながら、それでもなお「君」という存在へと身体を引きずっていく。

この曲の語り手は、明確な自画像を持たない。彼女は「軽薄」で「高貴」で「くたびれだらけ」で「期待ない連中」に埋もれる者であると自称する一方、そのすべてが「君」の存在に依存して変化していく。「いい子じゃいられない」という言葉に滲むのは、善悪の基準すら他者に明け渡した自己の柔弱さである。語り手は、言葉よりも「態度で示さなきゃ伝わらない」と言いながら、実際にはその態度をも決定しきれないままに、相手の不在と不誠実に苛まれ続けている

「喉を過ぎればそれは真実」という一節は象徴的だ。それは、苦い感情であっても、時間が経てば「事実」として受け入れられてしまうことへの皮肉であり、感情の真実性さえも失効してしまうような乾いた現代の感性を映し出す。すなわちこの楽曲は、強い感情に突き動かされながらも、それが何かを変えることのない無力な世界への投影である。

『ボッカデラベリタ』の世界には、救いの物語も、癒しの和解も存在しない。ただ「アイアイアイヘイチュー」と呻くような反復が、苦しみと空虚のあわいを縫ってゆく。君に囚われる語り手は、同時に「君」によってしか輪郭を得られない。この楽曲は、そんな他者依存の果てに浮かび上がる自己像の不在を、攻撃的な音と崩壊寸前の言葉で描き出している。

本論①:語り手の語り口と感情構造の不安定性

『ボッカデラベリタ』における語り手の声は、意味と意志を担う語りではなく、感情の断片が過剰に溢れた声そのものである。その特徴は何よりも、語りの主体が確固たる自己を欠いていることにある。すなわち、「君がいなければあたしは無い」とは、愛情の表明ではなく、自我の不在を他者によって補完している状態の告白である。

この語り手にとって、「君」とは情緒的な依存対象であり、同時に傷の原因でもある。「君がいるからあたしが痛い」「軽薄」「くたびれ」「期待ない連中」といった言葉の連なりは、他者に向けられた怒りでありながら、自己軽視や自己攻撃にも通じる。語り手は自分が「いい子じゃいられない」ことを認識しながらも、その評価軸を自分ではなく「君」のまなざしに委ねている。自らの価値を内面から構築することができず、他者の存在と視線によって決定される自己像しか持てないという構造が、ここにはある。

このような不安定な語りは、言葉の反復によってさらに強調される。「アイアイアイ」「な な な な」「あ あ あ あ」という語りの断片は、意味を伝達するのではなく、意味以前の情動や衝動がそのまま漏れ出たような音として響く。こうした構造は、語り手の言語的自律を否定するものであり、語りの破綻そのものが、自己崩壊の比喩となっている。

また「トップシークレット」「言葉にせずに」「態度で示せ」というフレーズに見られるように、この語り手は言語的な信頼をすでに失っている。彼女は、言葉では決して伝わらないという前提に立ち、身体的な態度や情動の痕跡にすがろうとする。しかし、その「態度」も結局は曖昧なままであり、何ひとつ確実な手がかりを与えてはくれない。

こうして、『ボッカデラベリタ』の語り手は、自己像も感情も定義できないままに、他者の存在に溺れながら、その不確かさに傷つき続ける。この語りは、現代のリスナーにとっても馴染み深い感情である。他人からの評価で自己が成立してしまうSNS時代の感性とも通底しており、自己肯定の源泉を外部に求め続ける不安定な実存を、楽曲は過剰なまでに情緒的な発話で写し取っているのである。

本論②:奈落としての恋愛構造と「落ちてゆく」自己

『ボッカデラベリタ』は、恋愛を肯定的な関係性としてではなく、自己の輪郭が溶解し、墜落していくプロセスとして描いている。語り手にとって「君」は、愛情を与えてくれる存在ではなく、むしろ**「引きずる」「痛い」「奈落へ導く」者**である。恋とは高揚や幸福の源ではなく、自我をむしばむ病理であるかのように描かれているのだ。

「君がいなきゃ今頃高嶺なのに」「乾いた底へ引きずるの」「極を超えては落ちてくの」といった語句からは、恋愛によって“本来の自己”が損なわれていく感覚が読み取れる。しかしこの“本来”とは何か? それは語り手にも見えていない。ただ、現在の自己が「引きずられた結果」であるという認識だけが強く残っている。

ここには、恋愛によって変質してしまった自己への違和感がある。にもかかわらず、語り手は「君がいなけりゃあたしは無い」と繰り返す。これは矛盾ではなく、むしろ恋愛関係における自己喪失の本質を示している。すなわち、自己を明け渡さなければ関係が続かず、明け渡してしまえば自己がなくなる。この二重拘束の中で、語り手は「言葉にせずに」「態度で示せ」と迫られながら、意味の宙吊りに耐えている。

この恋愛構造は、単なる共依存とも異なる。語り手は依存しながらも、明確に「引きずられている」「痛い」と知っており、そのことに耐えながら関係を持続させている。ここには、「破壊的な関係を欲する自己」が顔を覗かせる。つまり、語り手は無意識のうちに傷つくことそのものを存在の証明として選び取っているようにさえ見える。

「肺に滲んだ衝動が喉を火傷させる」という描写は、まさにこの心理を象徴している。感情は内側から湧き出し、それが出口を求めて喉を焦がし、ついには「アイアイアイ」と音にならない叫びとなって漏れ出す。それは言葉として整えられることを拒否した情動の炎であり、恋愛によって壊れてゆく身体と心の断面図である。

このような恋愛の描き方は、破滅への傾斜を自己表現の一部とする現代の感性と密接に結びついている。救いや再生ではなく、「奈落の底へ」導かれること自体が一つの“帰属先”として選ばれているのだ。

結論:壊れゆく声が意味を超えて響くとき

柊キライ『ボッカデラベリタ』が描くのは、明確な物語ではない。語り手がどのような関係性にいたのか、あるいは「君」がどのような人物なのか、楽曲は一切説明しない。その代わりに響くのは、「君がいなければあたしは無い」「君がいるからあたしが痛い」という反復される情動のうねりである。

ここにあるのは、恋愛という制度に対する解釈ではなく、自己を形成する基盤そのものが他者への依存でしか成り立たないという、より根源的な不安定さである。語り手は「いい子じゃいられない」「言葉にせずに示せ」と自らに命じながらも、結局は「アイアイアイ」と呻くしかない。この呻きは、意味のある言葉ではなく、自己の不全を世界に叩きつける音響的な痕跡だ。

現代の若いリスナーたちがこの楽曲に共鳴するのは、語り手のように、他者によってしか自己を定義できない構造に既視感を覚えるからだろう。SNSにおける評価、視線、関係性の温度差――それらを通じて浮かび上がるのは、「自分とは何か?」ではなく、「他人がいなければ自分が無い」という問いの方なのである。

そして、この問いに明確な解は提示されないまま、楽曲は終わる。奈落の底へと導かれながらも、それが「あるべき場所」であるという逆説が最後に置かれる。この瞬間、『ボッカデラベリタ』は破滅や喪失さえも肯定するように響く。「壊れる」ことが、「存在する」ことの唯一の証明になってしまったこの世界において、語り手は愛の名のもとに崩れ落ちていく

だがその声は、確かに聴く者に届いてしまう。意味がなくても、筋道がなくても、壊れた声はそのまま、あなた自身の傷を照らし出す鏡となる。『ボッカデラベリタ』は、言葉を喪失した世界の中でなお叫ばれる「声」の歌なのである。

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