導入――なぜ「知らない」はこんなにも繰り返されるのか
「知らない 知らない 僕は何も知らない」。
この一節が、ひとつの歌の中でこれほどまでに何度も繰り返されることは珍しい。kemuによる『六兆年と一夜物語』は、物語性の強い楽曲であると同時に、語り手自身の語彙をめぐる葛藤、そして他者との関係性の不安定さを繊細に映し出している。
この歌において、語り手は一貫して「何も知らない」と言いながらも、実のところ多くを“知ってしまって”いる。その矛盾が、この物語の異様な緊張感と哀切さを形づくっている。自らの境遇を語るときの過度な抑制。他者に触れられた際の戸惑いと、それでも拭えない温もりの記憶。それらはすべて、「知らない」という言葉の背後に、否応なく沈殿していく。
本稿では、この曲の語りに潜む謎と感情の構造を多角的に分析する。特に注目すべきは、物語の舞台があいまいに設定されているにもかかわらず、鮮明な暴力や孤独が描かれている点である。「忌み子」「舌も名前も無い」「見つかれば殺される」といった文言は、社会の構造的な排除と、それに抗う関係の芽生えを物語る。
こうした表現の背後にある意味を、どのように読み解くべきか。
その手がかりは、「語られないこと」への注目にある。次章では、繰り返される言葉の中に潜む矛盾と、語り手の内面の複雑な層を丁寧に掘り起こしていく。
本論――「知らない」の中にある真実
1. 〈知らない〉という自己保護:語りの矛盾を読み解く
語り手は一貫して「知らない」と繰り返すが、それは無知の主張というよりも、自分を守るための言葉である。「叱られた後のやさしさも/雨上がりの手の温もりも」など、実際には多くを体験し、心に刻んでいる。
にもかかわらず「知らない」と語るのは、記憶を抱えきれない痛みに対する防衛反応である。
つまり、ここでの「知らない」とは記憶の欠如ではなく、感情の遮断である。それは、語り手が情動を処理する力を持たず、世界を一種の靄として捉えていることの証左である。
さらに重要なのは、「夕焼けに吸い込まれて消えていった」という言葉の繰り返しである。これは、出来事が記憶として定着せず、すぐに曖昧なイメージの中へと流れ去ってしまう構造を示している。記憶できないのではない。感情と出来事を接続できないのである。
このような語りの矛盾は、謎解きの入り口であると同時に、語り手が抱える深刻な「語れなさ」の徴候でもある。
2. 「君」の出現がもたらす関係性の揺らぎ
「舌も名前も無い」と語る語り手の前に、ある日突然〈君〉が現れる。「一緒に帰ろう」「君の名前が知りたいな」といった言葉は、閉じられた世界に外から差し込む光のようであり、語り手の中に封じられていた何かを刺激する。
しかし、〈君〉もまた「忌み子」として同じく排除される存在である。両者は「似ている」のではなく、「似たように拒絶されている」のである。そこに共感が生まれる。
だが、語り手の中でその共感は素直には受け取られない。「慣れない他人の手の温もり」と語るように、ぬくもりはむしろ“異物”として捉えられている。
それでも、「本当のことなんだ」と言い直すあたりには、はじめての感情を信じようとする懸命な努力がにじんでいる。
このような語り手は、自分の感情をうまく認識したり表現したりするのが苦手である。誰かと関わりたい気持ちはあるものの、どうやって関わればよいのかが分からず、他人の存在をどこか遠くの出来事のように眺めてしまう。〈君〉の言葉やぬくもりに対して、戸惑いと憧れが交錯しているのはそのためである。
この関係性は、愛や友情といった確かな名前では言い表せない。むしろ、世界に対してどのように立ち振る舞えばいいのかもわからない者同士が、偶然に出会い、たったひととき手を取り合っただけの、かすかなつながりにすぎない。それでも、それは語り手にとって、世界のあり方を一瞬だけ変えてしまうほどの出来事だったのである。
3. 「皆いなくなればいいのに」と語る絶対的な孤独
「こんな世界 僕と君以外/皆いなくなればいいのにな」。この言葉には、単なる厭世観以上の切実さがある。語り手にとって、他者との関係は常に脅威であり、存在していること自体が罰に近い。
ここでの「皆」は、具体的な誰かではない。語り手を排除してきた、あらゆる“世界そのもの”を指す。
それに対して「僕と君」は、ただふたりで完結する小さな空間を求める。だが、その空間も「夕焼けに吸い込まれて消えていく」。
この表現は、「世界との関係が築けない語り手」が、関係の成立そのものを幻想としてしか受け止められない姿を描いている。
〈君〉は確かに現れ、語り手の手を引いた。しかしそのぬくもりは、語り手にとっては消えていく風景のひとつにすぎない。ここにあるのは、永遠に満たされない関係の予感であり、決して届かない手触りへの憧れである。
結論――「これでいいんだ」と言い聞かせる終末
『六兆年と一夜物語』の語りは、「知らない」という否定から始まり、最後には「今はこれでいいんだ」と語り手自身に言い聞かせるように幕を閉じる。この変化は、癒しや回復を意味してはいない。むしろそれは、受け入れられなかった現実に対して、自らを納得させるための最後の言葉である。
語り手は終始「世界に居場所がない」と語ってきた。しかし〈君〉の出現によって、一時的にではあれ、自分という存在が他者と接続されうるという希望を抱いた。その希望は結局、夕焼けとともに消え去っていく。〈君〉がいた記憶すら、やがて「知らない声」に上書きされる。この記憶の薄れ方は、希望の喪失ではなく、はじめから希望などなかったという形で自己を保とうとする「再遮断」である。
それでも、語り手は最後にこう語る――「今は 今はこれでいいんだと/ただ本当に思うんだ」。
この「本当に」は、語り手が何度も繰り返してきた「知らない」と対になるものである。
知らないふりをしてきた者が、「本当」を口にする。
それは、絶望に慣れすぎた者が、絶望に寄りかかって生きる術を覚えてしまった証であり、心を閉ざしたままでも言葉を持てるという、悲しくも成熟した生のかたちである。
『六兆年と一夜物語』が描くのは、語り手が語ることを覚え、しかしなお救われなかったという物語である。
それゆえに、この歌は聞く者の内面に深く突き刺さる。「知らない」と繰り返すその声は、実は誰よりも“知っていた”ことの証明であり、だからこそ切実なのである。
語り手が見た「おとぎばなし」は、誰にも伝わらず、夕焼けに吸い込まれていった。
だがその語りは、私たちに確かに届いている。
それは、救いとは異なるかたちの“共鳴”であり、記憶されない存在が誰かに届く可能性を、微かに示している。
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