導入|「忘れてしまったわたし」は、まだ語りかけようとしている
いよわ『わすれモノ』は、一見すると「何もかもを忘れてしまった」語り手の、断絶と無力感に満ちた独白である。歌詞は「全部忘れてしまいました」というフレーズから始まり、「透明になってしまいました」「亡霊になってしまいました」「ついに隠れてしまいました」と、自己の消失や解体を語る言葉が重ねられていく。さらに、「折り紙を撒いた床」「空になったお菓子箱」など、かつての記憶や夢の名残を示すメタファーが、過去への手触りをほのかに残しつつも、現在の“空虚”を強調する。
だが、この楽曲が描いているのは単なる虚無や喪失ではない。それはもっと微細で、もっと複雑で、もっと切実なもの——何もかもを失った末に、それでもなお語りかけようとする小さな衝動に他ならない。「喉まで出かかった言葉」「だけどやっぱ言えないや」と語り手は繰り返す。しかし曲の最終行、語り手は震えるように、言葉の輪郭を取り戻す。「友達になってくれ…、ま、…すか」と。
『わすれモノ』は、記憶や存在の喪失の先に、それでも誰かに届いてほしいという語りの起点を見出す歌である。忘れたからこそ語れるものがある。失ったからこそ響く声がある。語り手は「もういない」ことを自覚しながらも、「まだ居る」と告げているのだ。
本稿では、この「語れなさと語り直しの交差点」としての『わすれモノ』に注目し、3つの観点からその構造を読み解いていく。すなわち、①忘却の風景、②舞台と観客の構造、③未完の言葉が生む再生の契機である。語られた「わすれモノ」が、本当はずっと隠されてきた「かけがえのなさ」だったのではないか。その問いに、静かに触れてみたい。
本論① 忘却の風景——「何もないがありました」という逆説
『わすれモノ』の語り手は、冒頭から一貫して「全部忘れてしまいました」と繰り返す。これはただの物忘れではない。名前、過去、自分自身に属するすべての記憶、つまり自我の根幹をなす輪郭ごと“忘却”した存在であることが明言されている。しかしこの歌が興味深いのは、「忘却」が無というよりも、むしろ**“忘れた後に残る風景”**として描かれている点にある。
たとえば〈空になったお菓子箱みたいな〉という一節。これは喪失の比喩であると同時に、「かつては中身があった」ことの証左でもある。また〈引きちぎって床にまいた折り紙〉は、無意味な光景のようでいて、何かを作ろうとした痕跡、すなわち創造の名残である。「忘れた」という行為は、そのまま空白にはならない。むしろ忘れた事実の輪郭だけが、かえって鋭く残るのである。
その象徴的なフレーズが〈何もないがありました〉という逆説だ。論理的には矛盾しているが、この語りは非常に切実でリアルだ。「なかった」と言い切ることもできず、「あった」と信じる根拠もない。それでも、何かがあった“ような気がする”という漠然とした情感——それが語り手の「喪失の後に残された現実」であり、彼/彼女がいま立っている足場である。
忘却とは、感情の死ではなく、再び感情が触れるための余白かもしれない。その余白には、「ビビってしまいました」「ひどく疲れてしまいました」といった身体的な反応が繰り返し登場する。語り手の反応は、消耗しきった感情ではなく、むしろ**“生々しく反応しつづける自己”**を示している。完全に無になったのではなく、無になってなお、傷つく力だけは残っていたという構造こそ、『わすれモノ』が提示する「喪失の風景」の核心にある。
本論② 舞台に立つ“亡霊”——演じる自分と観られる恐怖
『わすれモノ』の中で、ひときわ異質な光景として浮かび上がるのが、次の描写である。
幾千の人の前で 衣装を着て歌い踊ってる
想像がつきますか
おかしい!おかしい!おかしい!って
言われてるような気がしました
これは、明確に「舞台」を想定した比喩である。だがそれは栄光の場ではない。他者の視線に晒され、自意識を増幅させる“見世物”としての舞台である。衣装を着て歌い踊る自分は、すでに“本人”ではなく、演じられた役割であり、「想像がつきますか?」と問いかける声には、自分が本当にそこにいたかさえも曖昧にしてしまう虚構性が漂っている。
さらに特徴的なのは、「言われてるような気がした」という間接的な語り口である。誰が、いつ、何を言ったのかは明示されない。ただ、「観られている」「笑われている」「嗤われている」という内面化された視線だけが残る。この視線は、外部からの評価というより、語り手自身が自分を嗤う声として聞いてしまっている幻聴に近い。つまり、これは**「現実の舞台」ではなく、「自意識という劇場」**なのである。
この構造は、曲中後半の「アンコールが鳴り響いてた」へとつながる。アンコールは本来、観客が演者にもう一度舞台に立ってほしいという“賞賛”の声であるはずだ。だが本楽曲では、その響きは空になった頭の中に反響する幻影であり、喜びや達成ではなく、むしろ呪いのような継続要求として響いている。
「これで全部やめですか?」
この一言は、まるで語り手自身が、自分に問いかけているようにも聞こえる。すべてが終わったはずの舞台で、語り手はまだ降りられない。舞台に立つ“私”と、それを外から見る“誰か”の視線は分離されず、常にズレながら同居している。
このように『わすれモノ』は、「自己を演じ続けること」と「それを他人に見せること」が強制される世界を描いている。語り手は自ら舞台に立ったわけではない。むしろ**舞台に押し上げられた“亡霊”**として、役割を着せられ、視線を受け、そして消耗していくのである。
舞台とは本来、歓声と喝采の場所であるはずだ。しかしこの楽曲では、拍手ではなく沈黙の重みこそがリアルであり、「亡霊」と化した語り手は、光ではなく観客の“目”に焼かれていく。
本論③ 言葉の未完性と再生の契機
『わすれモノ』の語り手は、繰り返し「言葉にならない状態」にあることを示している。
喉まで出かかった言葉
だけどやっぱ言えないや
このラインに象徴されるように、語り手は語ることを欲しながら、語れない。言葉は「喉まで」来ているのに、外へ出ない。ここにあるのは、自己表現の希求と、それにともなう自己否定のせめぎ合いである。「言いたい」が「言えない」に変わる瞬間は、まさに自分が“透明”であることを自覚させる転落点でもある。
さらに、
舌の上くつろいだ言葉
味がなくて飲み込んだ
という表現には、「言葉」がすでに意味や熱を失った“抜け殻”のようなものとして描かれている。ここでは、言葉はただの音や形式ではなく、かつて誰かに届いていた実感の象徴である。しかしその“味”はもうない。それは語り手が「誰かに語りかける資格がない」と思い込んでいる状態を表している。
だが、『わすれモノ』はそこで終わらない。楽曲の終盤、語り手はこう語る。
友達になってくれ…、ま、…すか。
このラインは、全編の中でもっとも重要な瞬間である。ここには「問いかけ」と「願い」の形式をした、未完成な自己表現がある。言いよどみながらも、語り手ははっきりと「あなた」に語りかけている。そしてこの呼びかけには、語り手のすべてが込められている——記憶を失っても、舞台から降りられなくても、他人の目に脅えていても、それでも「関係性を始めたい」という最後の希望が込められているのだ。
この一言は、従来の「わたしを見てほしい」「理解してほしい」といった訴えとは異なる。むしろ、「忘れてしまったわたし」だからこそ語れる、“最小限の言葉”による最大限の祈りなのだ。名前も物語もないわたしが、ただ一言、「友達になってほしい」と、他者に向けて言葉を差し出す——それは“自己の回復”ではなく、“関係の回復”である。
つまり、『わすれモノ』というタイトルは、何かを忘れた語り手の歌ではなく、忘れてなお残った言葉が、他者へ向かって発される瞬間を捉えた歌である。未完であること、語りきれないこと、そしてその未完のまま届けようとすること。それこそが、この曲における再生の兆しなのである。
結論|「透明」なわたしから、あなたへ
いよわ『わすれモノ』は、記憶の欠落や自己の不在を描いた楽曲である。しかし、その語りは単なる諦念ではない。むしろ、すべてを失った語り手が、それでもなお何かを「語ろうとする」力に満ちている。
語り手は、過去を思い出すことができない。夢を追う力も失っている。そして舞台の上に晒され、他者の目に焼かれながら、自分を“亡霊”のように感じている。だが、それでも歌詞の最後に残された「友達になってくれ…、ま、…すか」という一行は、ただの問いかけではない。それは、失われた自己が再び関係性のなかに立ち上がろうとする、かすかな再出発の言葉である。
「透明になってしまいました」とは、他人の目に映らないという意味だけではない。それはむしろ、「自分の存在があいまいであること」を、語り手自身が自覚しているということだ。そしてその自覚こそが、「もう一度、誰かに向かって語ること」を可能にしている。忘却とは終わりではない。それは語り直しの入口である。
『わすれモノ』は、喪失と再生の物語である。いや、再生とは呼べないかもしれない。けれど、“まだ語る力が残っている”ことだけは確かである。それは傷つき、疲れ、何も持たない語り手が、なお誰かに手を伸ばそうとする姿勢そのものだ。
何もない場所から、語られたひとつの声。「わたしのことが見えますか」と問いかけるその声は、忘れられた人間の声ではない。むしろそれは、これから“誰か”になるための、最初の言葉である。
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