こんな人におすすめの歌詞と考察!
- この曲の「私」の正体が「幽霊」だと思ってしまっている人
- 歌詞中の「私」と「あなた」の関係性を知りたい人
【導入】触れてはいけないものに、なぜ人は惹かれてしまうのだろう。
いよわ『私は禁忌』の歌詞の意味を素直に読むならば、この「私」は「幽霊」であるということがわかると思う。「幽霊が幸せの中に居ようなんて」と明言されているからだ。
そのように考えるならば、ここでいう「禁忌」というのが「幽霊」になるための境界線のようなものだということになるだろう。端的にいえば、それは「死」だ。
このようなことは誰の目にも明らかだと思う。
しかし、この余りにも明確で直線的な思考が私たちに一つの疑念を抱かせる。
なぜ、わざわざ「禁忌」という言葉を用いたのか、ということだ。そのような言葉を用いる必然性がないということに私たちは注目しなければならない。
ここで逆説的に次のように考えることができる。「禁忌」が「死」の比喩ではなく「幽霊」のほうが比喩である可能性についてだ。
そうであるならば「幽霊」というのは何の比喩なのか。本論ではこの謎を解くために書かれた。
【本論①】禁忌としての自己──逸脱者の語りの構造
前述の問題を考えるために、改めて「私」が置かれた状態を整理してみよう。
「俺らの仲間になろうぜ」という歌詞が象徴するように「私」が孤独であることは改めて指摘しておくべきだろう。このような状況であるからこそ、読者は「私」が「幽霊」であると感じてしまう。
しかし、本論ではそのような読み方をしないのは冒頭で宣言したとおりだ。ではなぜ「私」は孤独なのか。
再び「私」の状況に戻ろう。彼女(ここでは仮に「私」を彼女とする)の外側は冷たかったり、暖かったりと実に曖昧だ。そしてその外側には人がたくさんいる。さらに「禁忌」に触れたことに対して激しい感情をぶつけていることも特徴的である。
このような状況について私は一つの言葉を思い出す。
「正義を行えば、世界の半分を怒らせる」
アニメーション監督・押井守が彼の作品で用いた言葉である。
この言葉に私は本曲との重なりを感じるのだ。つまり「私」は、あまりにも倫理的で、世俗に対して潔癖な人物ではないかということだ。つまり「私」が触れた「禁忌」というのは、その高潔な理念のことだと考えることができる。
しかし、いや、だからこそと言うべきだろうか。
「私」は孤独なのだ。世俗とも群れることができないが故に、自分のことを「幽霊」と自称する。あまりにも世間とかけ離れすぎて居るからだ。
【本論②】誘惑と境界──「仲間になろうぜ」の声の正体
しかし、そのような「幽霊」である彼女にも大切な人がいるらしい。
「あなただけは守らなくちゃ意味がない」
というのがその証拠だ。
そして、この関係性は同時に「私」という存在の人間像を更に立体的に浮かび上がらせてくれる。
そう。「私」の高潔な理念は「あなた」を守るために立ち上がったものであるということが可能性として立ち上がってくるのだ。
ただ、彼女自身がどうしようもなく孤独な戦いを強いられていることは間違いない。
だからこそ「あなた」とは別の道をいく。
「どうか ここで私に会うのはやめてほしい」というフレーズは彼女の願いそのものだ。
温かいところに「あなた」はいてほしい。それは同時に苦しい場所かもしれないけれど、安心してほしい。そんな世界を「私」が変えて見せるから。
本曲の背骨は、そんな悲壮な覚悟なのである。
【結論】逸脱してもなお、「わたし」は愛のかたちを探している
この歌は冷たいだけの物語ではない。
逸脱者としての自分を認識しながらも、愛のようなもののために孤独を選んだ。そんな繊細な感情が確かに息づいている。
繰り返そう。
「私」は幽霊ではない。寒さも感じるし、痛みも感じる。そのように歌詞の中にある。
しかし、それでもすべてを変えるのだ。たとえ世界の半分を怒らせることになっても。
この曲に心を預けた誰かもまた、そんな覚悟のなかに自分を見つけてしまうのではないだろうか。
※本記事は、楽曲の評論・批評を目的として歌詞を一部引用・参照しています。著作権はすべて権利者に帰属します。
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