【歌詞考察】いよわ『わたしは禁忌』「触れたいのに、触れてはいけない」という拒絶とぬくもり

いよわ

【導入】触れてはいけないものに、なぜ人は惹かれてしまうのだろう。

触れてはいけないものに、なぜ人は惹かれてしまうのだろう。いよわの『わたしは禁忌』を聴いていると、そんな問いが胸に浮かぶ。
この楽曲で描かれる「わたし」は、まるで社会の外側に追いやられた存在だ。冷たく凍りついた街、仲間に誘う声、そして「あなた」だけに残されたぬくもり。そこには、どこにも居場所を見つけられない誰かの姿がある。

「禁忌」という言葉は、単なるタブーを意味するのではない。この歌で語られる「禁忌」は、人に触れてはいけない、けれど本当は触れたくてたまらないような、矛盾した感情のかたまりだ。語り手は「寒さ」というイメージで、自分が置かれている孤立の状態を描きながら、同時に「あなた」への強い感情を隠しきれずにいる。

注目すべきは、この語り手が「かわいそうな存在」でも「正義の味方」でもなく、人を拒みながら人に惹かれてしまう、きわめて人間らしい矛盾そのものとして描かれている点だ。
「幽霊が幸せの中に居ようなんて、馬鹿だ」と言い放ちながら、最後には「ここで私に会うのはやめてほしい」と願う——これはまさに、自分から消えようとしながら、ほんの少しだけ覚えていてほしいという、切実な願いのあらわれだ。

本稿では、この「禁忌のわたし」が抱える内なる矛盾と、社会との摩擦、そして「あなた」という例外的な存在への感情を読み解いていく。
それは、他人とつながりたいのに、つながることが怖くて仕方がない人の心そのものである。そうした心の輪郭を浮かび上がらせるために、本記事では語り手の視点と感情のゆらぎを追いながら、歌詞をていねいに紐解いていくことにする。

【本論①】禁忌としての自己──逸脱者の語りの構造

『わたしは禁忌』の語り手は、はじめから「こちら側」にいない。
「太陽が落ちてくりゃいいな」「この街の外には出れない決まり」といったフレーズは、世界に背を向ける願望と、それを裏付けるような“取り決め”を並列して語っている。この「決まり」が誰によって定められたものなのか、歌詞は明言しない。しかし、ここにあるのは制度的な規則ではなく、自分で自分に課してしまったルール、あるいは内面化された恐れによって生まれた心理的な「境界線」である。

語り手は寒さの中にいる。物理的な寒さではなく、誰からも触れられず、理解もされず、ただ孤独だけが染みついたような寒さである。
「涙の乾いた塩味の道を歩いているわ」「決して近道しないように」――ここにあるのは、他人の好意や共感に近づくことすら自分に禁じている語り手の姿である。楽になる道を知っていながら、そこへは踏み込まない。これはいわば、自分が“逸脱者”であることを意図的に維持している姿勢といえる。

「私は禁忌に触れた」と語るとき、彼女は社会の中で「超えてはいけない一線」を越えた者として、自分を位置づけている。けれど、これは反抗というよりもむしろ自己処罰に近い。自分が罪深い、あるいは壊れた存在であると感じるがゆえに、誰かと温かい関係を持つこと自体を“ふさわしくない”と感じているのだ。

このようにして語り手は、自らを冷たい領域に閉じ込めながら、同時に「あなた」だけには暖かさを感じてしまうという二重構造の中にいる。「あなたの近くだけが暖かいままなのは / まだ私を忘れていない証なの」という一節に、そのひそかな願望が滲んでいる。
決して求めてはいけないぬくもりに、どうしようもなく惹かれてしまう――この矛盾こそが、「禁忌」の正体なのである。

【本論②】誘惑と境界──「仲間になろうぜ」の声の正体

『わたしは禁忌』には、「仲間になろうぜ」「代われ代われ代われ」「触れ触れ触れ」という、異様な迫力を持った声が何度も現れる。これらの呼びかけは、一見すると連帯や共感の表れのように見えるかもしれない。だが、語り手の反応はその真逆だ。「ざまあみろよ!そこから先は踏めないだろ」「この日常は渡さないわ」と突き放すように叫ぶ。

このやりとりの背景には、“境界”をめぐる攻防がある。ここでの境界とは、「まだギリギリ人間としての理性や感情を保てている側」と、「壊れてしまった側」のあいだに引かれた見えない線だ。
語り手はその線のすぐ手前に立っている。あるいは、もう片足を越えてしまったのかもしれない。それでも、「連れて行かれんぞ」「連れて行っちまうぞ」と、自分を引きとめるように言い聞かせている。

「代われ」「触れろ」という声は、語り手の外側からやって来るようでいて、実は彼女の内側にも根を張っている。それは他人の言葉を借りた自分自身の衝動であり、諦めや投げやりな感情が擬人化されたような存在だ。つまり、ここでの「仲間」は、実際の他者ではなく、自己のなかに潜む“堕ちてしまいたい欲望”そのものなのである。

しかし、語り手はその声に対して明確に線を引く。「そこは動けないほど冷たいだろ」「あなただけは守らなくちゃ意味がないだろ」。これらの言葉は、境界の向こう側への転落を自制しようとする意思のあらわれだ。「禁忌に狂れた」とは、自分を破壊する何かに触れてしまったことを意味するが、語り手はその状態に自分を引き入れまいと踏みとどまっている。

皮肉なのは、この誘惑の声が語り手の「日常」を揺るがす存在でありながら、彼女の心を孤独から救い出す可能性も秘めているという点だ。けれど語り手は、「救い」にすら警戒している。なぜなら、そのぬくもりに触れることは、もう一線を越えて戻ってこられなくなることと紙一重だからだ。

こうして語り手は、自らの内部に生じた誘惑の声と、日常の冷たさのあいだで、触れることも触れさせることもできないまま、じっと立ち尽くしている。それは一見すると、ただの自己防衛に見えるかもしれない。しかし、そこには「他人を巻き込まない」という、切実な倫理のようなものが感じられる。壊れてしまった自分を、誰にも預けたくないという強い決意である。

【本論③】「あなた」だけは例外──冷たさの中の熱

語り手は、世界を「寒い場所」として描いている。それは物理的な気温のことではなく、他人に触れることができず、また触れられることも許されないような、絶縁された感情の風景だ。
「涙の乾いた塩味の街で暮らしているわ」という表現には、泣くことすら癒しにならないような、感情の枯渇と諦めがにじんでいる。そんな中で唯一、暖かさをもって語られるのが「あなた」だ。

「あなたの近くだけが暖かいままなのは / まだ私を忘れていない証なの」

この一節が示すのは、語り手にとって「あなた」がただの他者ではなく、自分の存在がかつて肯定された唯一の記憶であるということだ。世界がすべて凍りついても、「あなた」の側だけはまだ溶け残っている。それは「ぬくもり」の記憶であり、同時に「救い」の可能性を孕んでいる。

ところが、語り手はそのぬくもりに近づこうとはしない。「どうかここで私に会うのはやめてほしい」と結ぶこの歌のラストは、救いを願いながら、同時に拒むという極めて複雑な選択を意味している。
「あなた」に会ってしまえば、自分の“禁忌”に巻き込んでしまうかもしれない。あるいは、自分が壊れていることを真正面から見せてしまうかもしれない。だからこそ、最後の一線を超えさせないように「黙れ」「来るな」と叫ぶ。

この矛盾に満ちた拒絶は、「自己犠牲」ではない。むしろ語り手は、自分を守るために「あなた」を拒んでいる。だが、同時に「あなたを守るために」も拒んでいる。愛と自己保存と恐れが複雑に絡み合い、どれがどれを支えているのかすら不明になるような感情の構造がここにはある。

「寒さが何だってんだよ!」と叫ぶ瞬間、語り手は一時的にでもそれを打ち破ろうとする。だがそのすぐあとで、「どうかここで私に会うのはやめてほしい」と、自分から距離をとってしまう。
この行動は、単なる逃避ではない。むしろ語り手は、自分が壊れてしまっていることを十分に自覚しているがゆえに、それを他人のまなざしから遠ざけようとしている。つまりここでの「あなた」への拒絶は、愛情の最後の形であり、語り手ができる最も誠実な選択なのだ。

【結論】逸脱してもなお、「わたし」は愛のかたちを探している

『わたしは禁忌』は、決して「救われる物語」ではない。むしろこの歌の語り手は、救いの手が差し伸べられそうになるたびに、自らそれをはねのけてしまう。その行為は一見、ひねくれた孤独者のように映るかもしれない。だが、そこには単なる自虐や悲劇性を超えた、深い倫理が宿っている。

語り手は、世界からこぼれ落ちてしまった存在であることを自覚している。「私は禁忌に触れた」「禁忌そのものだ」と語ることで、自分がもはや他者と同じ地平にいられないことを引き受けている。そして、自分にしかわからない苦しみを抱えながら、それでも「あなた」だけは守ろうとする。
その姿には、触れたいけれど触れてはいけない、壊したくないからこそ距離を取る――という、愛のひとつの形が描かれている

「あなた」が泣く場面で初めて語り手は感情を揺らし、「こんな寒さが何だってんだよ!」と叫ぶ。けれどその後でまた、静かに「ここで私に会うのはやめてほしい」と語るこの結末は、愛と自己否定、希望と恐れが常にせめぎ合っている現代の人間の姿を象徴している。
それは、感情の「オン」と「オフ」の切り替えを強いられ、誰かとつながることすら“リスク”とされる時代の中で、それでもなお誰かを愛そうとする苦しい姿勢なのだ。

この歌が胸を打つのは、「触れることを断念する」という非接触の愛情を描いているからだろう。ぬくもりを知っているからこそ、拒絶する。愛しているからこそ、黙って立ち去る。その矛盾の中で「わたし」は、誰よりも強く誰かを想っている。

だからこそ、『わたしは禁忌』は冷たい歌ではない。そこには、自分を逸脱者と見なしながらも、なお“愛されること”を願ってしまう、人間のどうしようもないやわらかさがある。
そしてこの歌に心を寄せる人はきっと、自分の中にもそのやわらかさがあることを、どこかで知っているのだろう。

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