導入|魔法のような言葉で現実を照らすとき
「リリカルルカリラ」という謎めいた言葉が、この歌の核心にある。
意味はない。だが、意味がないからこそ祈りに近い。感情がうまく言葉にならないとき、あるいは言葉を尽くしても届かない現実に直面したとき、人は意味以上のものに頼らざるを得なくなる。「魔法 魔法」と唱えるように、ただ何度も口にして、音にして、リズムにして、想いを手渡そうとする。
かいりきベアの『ココロドリーム』は、そうした〈言葉の力〉の在りかを、ファンタジーではなく極めて現実的な感情の断面から描いた楽曲である。登場するのは「守りたいのに守れない」「助けたいのに助けられない」語り手だ。彼/彼女はただの夢想家ではない。現実の困難に翻弄され、迷い、戸惑い、言葉を失い、それでもなお呪文のように言葉を紡ぐ。
この曲が訴えるのは、自己効力感――すなわち、「私には何かを変える力がある」という感覚の再起動である。それは、現代においてもっとも壊れやすく、もっとも取り戻しにくい感覚でもある。
本稿では、『ココロドリーム』を、祈りと希望を言葉に託しながら「もう一度、動き出そうとする」語り手の物語として読み解いていく。
本論①|守りたいのに守れない――無力感の出発点
『ココロドリーム』の語り手は、最初から明確な意志を持っている。「守りたい」「助けたい」という言葉が繰り返されることからも、それは間違いない。しかし、それと同じくらい頻繁に登場するのが、「守れない」「助からない」といった否定の言葉である。ここには、善意や愛情といったポジティブな感情が、現実の制約や非情さによって挫かれてしまうという倫理的ジレンマが存在している。
「『守りたい』だけじゃ 守れないだらけ」
「助からない なんて許せない」
これらのフレーズは、「何かをしてあげたい」という意志が、「でも実際にはできなかった/届かなかった」という失敗体験と直結している。語り手はその記憶にとどまり、悔しさややりきれなさを引きずっている。まるで、誰も救えなかった夜を何度も夢に見るように。
こうした無力感は、単なる個人的失敗の物語ではない。そこには、「善い行動が結果を伴わなかったとき、人はどう自分を保つか」という、普遍的な問いが潜んでいる。人間は、結果が得られなかった善意をときに自責へと変えてしまう。だからこそ、語り手のなかには「なんで…?」という言葉が繰り返され、理不尽と向き合いながら、感情が行き場を失っていく。
また、この曲において「未来」はしばしば「離れていくもの」として描かれている。
「感情 強張った 最中 離しちゃった 未来あしたと」
「遥か彼方 トビラの 開け方 すら 忘れ去って」
ここで「未来」は、もはや時間軸の延長線上にあるものではなく、喪失された可能性として表現されている。トビラの開け方を忘れてしまった語り手にとって、「明日」はもはや自動的に訪れるものではない。むしろ、自分で手繰り寄せなければ二度と触れられない距離にあるものだ。
そのような状況にあって、語り手はどうやって立ち上がるのか。どうやって「誰一人救えない」という言葉を拒絶し、自らを再び立たせようとするのか。その鍵となるのが、次に展開される「呪文=魔法」というモチーフである。
本論②|呪文=祈り=言葉による自己回復
語り手が抱え込んでいた「守れなさ」や「届かなさ」は、論理や説明では乗り越えられない。何が悪かったのか、どうすれば助けられたのか――そうした問いを繰り返すこと自体が、かえって語り手を深い自己否定へと導いてしまう。「なんで…?」という言葉の連呼は、すでにそれが答えを求める問いではなく、行き場のない感情を持て余す声そのものになっていることを示している。
そのときに語り手が選ぶのは、意味よりも響き、論理よりもリズム、説明よりも祈りである。
「魔法 魔法 唱えて
魔法 魔法 答えて
魔法 魔法 求めて
魔法 魔法 その手で」
ここには、自己回復のための「言葉の儀式」がある。意味が空転してしまった世界で、なおも声を上げるために、語り手は言葉を呪文のように反復する。この繰り返しは単なる装飾ではない。それは、自らの感情を現実につなぎ止めるための行為であり、無力感を少しでも手放すための能動的な祈りである。
そして、この流れのなかで登場するのが、「リリカルルカリラ」という意味不明のフレーズである。
「呪文で リリカルルカリラ」
「世界を リリカルルカリラ」
この言葉は、意味としての言語ではない。言葉が「何を意味するか」ではなく、「どのように響くか」「どのように作用するか」によって選ばれている。現実を変える力が自分にあるかどうかすらわからないとき、語り手はせめてこの音の束――響きとしての詩を手放さずに唱えるのだ。
こうした言葉の選択は、ただのファンタジー志向や中二病的演出とは一線を画している。むしろ現実の絶望に耐えるための、きわめて切実な「声の形式」である。
呪文を唱えるとは、自分に作用させることであり、言葉を自らの内面に響かせ、次の一歩を踏み出す準備をすることである。
語り手は、「魔法」を信じているのではない。むしろ、信じられるものが何もないからこそ、魔法のようなものに託すしかない心の状態にいるのである。
しかしそれは、決して諦めではない。
むしろ、「言葉を繰り返すことで、自分の感情を取り戻そうとする意志」なのである。
本論③|未来を照らす詠唱としての「リリカルルカリラ」
『ココロドリーム』における「リリカルルカリラ」というフレーズは、単なる印象的な造語ではない。それは、語り手が未来に希望を取り戻すための**詠唱(chant)**であり、言葉によって現実を照らし直そうとする行為そのものである。
「翳した宝物だからさ
交わした確かなチカラで
ココロに 笑顔の 絶えない
世界を リリカルルカリラ」
この場面において、「リリカルルカリラ」は世界を変える呪文ではない。むしろ、「笑顔の絶えない世界」や「翳した宝物」といった想いを現実に接続するための通路=回路のような役割を果たしている。言い換えれば、それは希望を言葉に託して、未来に向かって投げる動作である。
繰り返されるこの詠唱は、「この手で」「その手で」という主体的表現とも呼応している。歌の前半で「守れない」「助からない」と繰り返していた語り手が、後半では「照らして進め」「刻め」と、自らの行為によって世界に関与しようとしている。
「足掻いた戦いの運命さだめで
今はまだ止まれずに
孤独を 照らして進め
ココロに 笑顔の絶えない
希望ひかりを刻め」
ここには、かつて言葉を失った語り手が、呪文を通じてふたたび言葉を取り戻し、「光を刻む」という能動的行為へと至る変化が描かれている。
「刻む」という語が示すように、それは瞬間的な魔法ではない。努力や継続の中で、一歩一歩積み重ねていく希望の痕跡なのだ。
つまり、「リリカルルカリラ」は空想の産物ではなく、現実のなかで未来を信じようとする語り手の最後の手段である。それは現実を否定する言葉ではなく、現実を肯定するために紡がれる祈りである。そして、その祈りは音楽という形式を借りることで、ついに“他者に届く声”となる。
結論|魔法ではない。でも、それでも唱えたい言葉がある
『ココロドリーム』は、いわゆる「魔法」によってすべてが解決する物語ではない。
この歌が描いているのは、むしろその逆だ。「守りたい」と思っても守れず、「助けたい」と願っても助けられなかった語り手が、その挫折のなかで言葉を失い、未来に扉を閉ざしてしまったという現実だ。では、そのような地点から、どうやって人は再び歩き出せるのか――その問いに、この歌は一つの答えを差し出している。
それは、言葉の力である。いや、正確に言えば、意味ではなく“行為”としての言葉の力である。「リリカルルカリラ」「魔法 魔法」と繰り返されるフレーズは、世界を変える呪文などではない。ただ、それでも唱えずにはいられない。感情があふれるとき、意味の手前でまず声になる。
その声はやがて、語り手の身体と心を動かし、「光を刻む」という行為に変わっていく。
ここに描かれているのは、「何かをしてあげられなかった過去」を抱えながらも、それでもなお「もう一度、誰かの笑顔を願いたい」と思う気持ちだ。これは自己救済の物語であると同時に、他者への想像力と優しさの回復の物語でもある。
『ココロドリーム』とはつまり、「意味を超えた声」を手放さずに、**未来を照らすために唱える“生の詩”**である。
それが魔法でなくとも、誰も救えなかったとしても。
それでも、人は言葉を繰り返す――希望を信じるために。
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