【歌詞考察】マサラダ『イレギュラーマン』|ズレたまま始まるために――逸脱を肯定する歌

マサラダ

導入|意味不明でも、ただ跳ねろ

「どうかもっと遠くまで」と願いながら、「意味不明に散れ」と叫ぶ者がいる。マサラダの『イレギュラーマン』が描くのは、直線のレールから逸脱し、予定調和を破壊しながら生き延びる〈ズレた存在〉である。だがその逸脱は、決して華やかな反抗劇ではない。むしろそれは、まっすぐ転がれない不器用さ、平面にさえつまずく生きづらさ、そして「ズタボロのままで進め」と自らを叱咤するしかない孤絶の感情によって裏打ちされたものだ。

この主人公は、他人の目を気にして逸れるのではない。あるいは、革命を志して逸脱するのでもない。むしろ彼は最初から「合わない」存在なのだ。誰も気づかない「つまらない君」として始まり、既定路線を蹴り、血を滲ませながら「どうかしてるすべて」に会うため、無理やり外れ値となる。つまりこれは、自ら望んだヒーローの物語ではなく、逸脱することしかできなかった者の、自己肯定に至るまでの一種のサバイバル記録である。

『イレギュラーマン』というタイトルは、単に“異常な者”を意味しない。それは「通常の範囲からはみ出して生きるしかなかった者」が、自らの生き様に名を与える行為でもある。言い換えれば、本来ならば欠陥とされたそのズレを、〈呼び名〉によって武器化しているのだ。

この記事では、この「イレギュラーマン」の語り手を人格批評の観点から読み解きながら、彼がどのようにして社会的適応の困難さをサバイブし、逸脱という形式で〈在ること〉を肯定していったのかを見ていく。そしてそれはおそらく、正しく生きられないことに悩む誰かにとって、小さな赦しの物語になるだろう。

【本論①】「逸脱する者」としての生得的ズレ

『イレギュラーマン』の語り手は、「真っ直ぐ転がって」「何もないない つまんないね」という言葉で物語を開始する。しかし、この“真っ直ぐ”という語は皮肉に満ちている。通常であれば、「まっすぐ」とは安定した歩み、計画された未来、社会的に望ましい人格の比喩である。だが、この歌における「真っ直ぐ」は退屈さと不可視性の代名詞に過ぎない。つまり、この語り手は「正しさ」や「平均」に合わせたとき、世界から無視される存在になってしまうのだ。「だから誰も君に気づかない」「寂しいねこれは」と続くフレーズは、適応の中で失われる自己の存在証明を訴えている。

こうした感覚は、現代における「静かな絶望」と接続している。自己を無理に社会的規範に合わせようとするとき、人はしばしば“透明”になる。目立たず、波風を立てず、問題を起こさず、しかしその代償として「誰からも見えなくなる」という痛みを引き受けることになる。『イレギュラーマン』はまさにその“痛み”を起点としている。

ここで注目したいのが、「それならば 凸を持て 凹を持て」という一節である。これは、均質で目立たぬ「平らな存在」から逸脱し、あえて“出っ張り”や“へこみ”といった異形さを身につけよ、という呼びかけである。これは単なる個性の推奨ではない。むしろ、社会からずれた形をした者が、それを自己の生きる術に変えていくという、生存戦略そのものである。

「凸」や「凹」は、どちらも“普通ではない形”でありながら、それぞれ違った異常さを持つ。この語り手は、それを自らに課して「ゲラウェイ(立ち去れ/飛び出せ)」と叫ぶ。すなわち、社会的な整合性を捨てることでしか、自分という輪郭を確保できないという逆説がここにはある。

彼/彼女は逸脱するのではない。逸脱してしまっているのだ。そしてその事実に気づいたとき、むしろ「真っ直ぐ」であることが自己を殺すものであると理解し、あえて「ずれた自分」を選び取る。そうした姿勢がこの歌の前半に濃密に刻まれている。

【本論②】ズタボロでも転がれ:生の形式としての逸脱

『イレギュラーマン』の語り手は、「ただの平面でつまずいて」「割れた膝小僧」といった描写によって、〈まっすぐ歩くことさえ困難な身体〉を抱えていることを告白する。この言葉は比喩ではない。現代において、単に「普通に生きる」こと自体が、ある人々にとっては極端な困難を伴う行為である。標準的な能力、標準的な人間関係、標準的な感情表現——それらを前提とした社会の中で、どれほど多くの人間が“平面でつまずく”のか。この語り手もまた、そうした「不器用さ」を生きる者である。

だが、語り手はそこで倒れない。「滲み 燃えるように溢れる 真っ赤な血液よ」と、自らの傷を高らかに掲げ、むしろそれを推進力として叫ぶ。「ズタボロのままで進め」という言葉は、痛みによる停止ではなく、痛みを伴ったままの〈前進〉を意味している。ここには、自己破壊と生命の肯定が、矛盾しながらも共存している。

このような表現は、「自罰的自己愛(=自らを罰することでしか自尊感情を得られない構造)」の一端を思わせる。すなわち、語り手は「完璧な自分」や「健全な自己」ではなく、血を流し、躓き、ボロボロになっていく自分を通してしか、自分自身を肯定する術を持たない。それはどこかで、社会から疎外された人間が、自身の存在価値を〈苦しみの総量〉によって測るような思考に近い。

また、この節には「脱脱脱脱脱出だ」「役割など気にせずにやっちまえ」というフレーズも登場する。ここではもはや、語り手の行動には社会的意味付けや他者の期待が関与していない。すなわちこれは、「どう見られるか」よりも「どう生きられるか」に賭ける、純粋な生の跳躍である。常識や規範、あるいは“ちゃんとした大人”になること——そうしたものを振り払い、「変だ変だ変すぎる 信じられない様になってくれ」と、むしろ意味不明であることを望むその姿勢には、絶望を通過したあとの奇妙な純度が宿っている。

ここに至って、語り手は逸脱をもはや〈方法〉として用いるのではなく、それ自体を〈生の形式〉にしてしまっている。「突き抜けろ斜め上」という掛け声は、合理性や説明可能性の範疇を逸脱する生き様の象徴であり、語り手はそこにしか自分の“救い”を見出せないのだ。

この楽曲における逸脱は、狂気への一歩手前で踏みとどまっているわけではない。むしろ、すでに正気のラインを超えた地点から、「それでも生きる」という姿勢を肯定している。この点において、『イレギュラーマン』は単なる反抗歌や自己啓発ソングを超えた、きわめて実存的な応答を成している。

【本論③】名付けと超越:イレギュラーマンという英雄譚

終盤、語り手は「ラーラーイレギュラーマン」と、まるで自己賛歌のように自らを呼び始める。ここで注目すべきは、「イレギュラーマン」という語がただのラベルではなく、「逸脱し続ける者」の生き様そのものを表す称号になっているという点である。逸脱というネガティブな烙印を、彼は自らの名前として引き受ける。これは〈名付け〉による転回である。

名を持たぬ者が、逸脱や異常性という“欠損”によって語られるとき、人はそれを恥と感じる。だがこの語り手は、その恥を逆手に取って、「イレギュラーマン」という言葉を自己のアイデンティティへと引き上げる。それは、負けを勝ちに転じるための詭弁ではない。むしろ、「どうせズレているなら、そのズレを名前にしてしまえ」という開き直りと、その先の自由の獲得なのである。

この自己命名の瞬間において、語り手はもはや「誰にも気づかれない存在」ではない。世界の外れ値として見落とされていた“ズレ者”が、突如として物語の語り手に躍り出る。この構造は、まるで神話におけるアンチヒーローのようでもある。英雄譚において、主人公とはしばしば社会から拒絶された者であり、その逸脱が世界を変える力に転じる。『イレギュラーマン』は、そうした物語構造を個人の感情領域へと落とし込んだ現代のサバイバル譚といえる。

また、「捻じ曲がって始まれ」「傷を持って始まれ」という言葉が繰り返される点も印象深い。これらは、完全無欠な状態ではなく、歪んだままで始めよというメッセージである。つまりこの歌は、“準備が整ったら始めろ”という社会的常識を真っ向から否定し、むしろ“破れていようが歪んでいようが、とにかく始めろ”と促す。これは、従来の生き方や達成主義に対する痛烈なカウンターであり、逸脱そのものを動力源にする生き方の表明である。

こうして語り手は、「逸脱するしかなかった存在」から、「逸脱によって始まる存在」へと移行していく。「イレギュラーマン」とは単なる異常者ではない。それは、逸脱のままで立ち上がる者、敗北を引き受けながら進む者、そして“意味不明に散れ”と歌うことで、逆説的に意味ある生を模索する者なのである。

【結論】逸脱は、敗北ではない

『イレギュラーマン』の語り手は、まっすぐ歩くこともできず、平面でさえつまずく存在であった。しかし、彼はその不器用さや歪みを捨てることなく、むしろそれを生き延びるための武器とし、「イレギュラーマン」という呼び名を自らに与えることで、自分自身の逸脱に意味を与えた。

ここには、「正しく生きられない」ことがそのまま敗北や無価値に直結してしまう社会への、痛烈なノーが込められている。まっとうであること、平均的であること、順序通りに進むこと。そうした“良き生”のイメージから外れた者が、自分の歪みや異常を名指しすることで立ち上がる。その行為は、社会的には逸脱であり異常とされるかもしれない。しかし、その逸脱の中にこそ、他の誰にも代替できない〈生の形式〉が宿っている。

「意味不明に散れ」という言葉には、敗北の予感が含まれているかもしれない。けれどもそれは、あらかじめ予定された意味や役割に自分を従わせることなく、自らの生を、自らの形で終えるという意思でもある。他者の期待に沿うことも、社会に理解されることもなく、それでも自分のやり方で転がり続ける。その選択の中に、誰にも奪えない自由と、かすかな尊厳が光っている。

『イレギュラーマン』は、そうした生の在り方を肯定する歌である。そして、それは「正しく生きられない」と感じたことのあるすべての人にとって、小さな祈りにも似た応答となるだろう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました