【歌詞考察】LOL『レビテト』承認と毒の倫理

LOL

導入|「好き」と言いながら、「生きていたい」と願うということ

『レビテト』という楽曲は、感情の起伏をあらわにするタイプの歌ではない。むしろ、語り手はどこまでも冷静で、醒めている。毒を吐きながら、鏡を覗きながら、数字を見つめながら、彼女は「好き」と言い、「生きている」と呟く。ただし、その「好き」は他者に向けられたものではなく、鏡の向こうの自己に対する言葉であり、またその「生きている」は、幻想のなかでさえも自己を見失わずに済んだことへの、ぎりぎりの祈りである。

この語り手は、決して「誰かに愛されたい」と真正面から願っているわけではない。「愛して愛して私だけ」なんて言わない、とあらかじめ釘を刺すことで、彼女は愛への飢えを否認する。だが否認こそが飢餓の証明であるように、彼女の語る「幻想」はそのまま、承認されなかった過去と、承認されるかもしれない未来への、きわめて切実な足場となっている。

鏡、毒、幻想、数字──それらはすべて、彼女が彼女自身を保ち続けるための媒介物であり、防衛装置である。つまり『レビテト』とは、「承認されたい」と声高に言えなかった者が、「それでも私は生きている」と告げるための歌である。

この考察では、語り手の人格傾向に注目しながら、承認と否認、現実と幻想、自己愛と自傷的な感情とのあいだにある微細な揺らぎを読み解いていく。

本論①|承認への飢えと「毒」の戦略性

『レビテト』の語り手は、他者からの承認を欲していないふりをしながら、その欠如を繰り返し訴えている。冒頭の《なんでもかんでも私だけ/嫌いね世の中なんて》というラインに始まり、《世界で浮いてる気がするわ》という自覚に至るまで、彼女は自分が周囲と「ズレている」「選ばれていない」ことを強く意識している。しかし、それを素直に「寂しい」「つらい」とは言わない。その代わりに彼女が採用するのが、“毒”という戦略である。

語り手は《ただメンチ切って毒吐いて》と語る。ここには、あからさまな攻撃性というよりは、愛情の裏返しとしての拗ねや屈折が込められている。「どうせ私は理解されない」「好かれない」という前提のもとに、それでも他者の関心を惹きたいという欲望が漏れ出すかたちで、毒は放たれているのである。

この毒は、自己防衛であると同時に、承認を引き寄せるための“裏ルート”として機能する。すなわち、「良い子でいられない自分」を見せることで、正面からの愛ではなく、同情や注目、あるいは共感というかたちでの疑似的承認を得ようとするのだ。これは自己評価の低い者に典型的な構造であり、「どうせ私なんて」と言いながら、どこかで「それでも気にかけてほしい」と願う、極めて人間的な屈託である。

しかも彼女は、その屈託の存在を自覚している。《ちょっとだけならいいと/「また…また…」って誰かに見せるの》というラインでは、「見せる」という能動性が示唆されている。語り手は、自分の弱さや毒が“他人の目”によって価値化されることを知っており、それゆえに、毒を排除しきることもできない。むしろ、毒のなかに自分を存続させるという選択を、彼女はすでにしてしまっているのだ。

承認されたいけれど、される自信はない。その矛盾を解決するために、彼女は「わかりやすい好かれ方」を放棄し、「少しずつ嫌われないための毒」を選び取る。これは単なる拗ねではない。複雑な承認戦略であり、同時に、自己保存のためのぎりぎりの選択である。

本論②|数字が与える実存的確証とその脆さ

『レビテト』の語り手が最終的に頼るのは、人ではなく「数字」である。曲の終盤、《暗い暗い部屋の隅で見てた/ただ確かな数字が/居てもいいと言うの》というフレーズが象徴的だ。これは、SNS的な承認システム──「いいね」や再生回数、フォロワー数といった可視化された他者の関心──を通じて、自分の存在が保証される感覚を描いている。

人は不確かである。他者の愛情は変わるし、承認は気まぐれだ。しかし数字は──少なくとも語り手にとっては──「確か」である。誰かが一度押した「いいね」は、取消されない限り、そこに残り続ける。数字は語り手にとって、変わりゆく世界における**唯一の可視的な“根”**となる。

だが、その「確かさ」はあくまでも量的な慰めに過ぎない。誰が押したか、なぜ押したかはわからない。匿名の、文脈を持たない関心。それでも語り手はそこに意味を見出そうとする。なぜなら、自分が“存在してよい”という言葉を、誰かの口から直接聞くことがなかったからだ。数値が承認の代替物になったのではなく、数値しか承認の回路が残されていなかったのである。

興味深いのは、語り手がこの構造を自己欺瞞として認識している点である。《ただの幻想と知って未だにやって》というリフレインは、語り手が自分を騙していることを自覚しつつ、それでも“やらずにはいられない”という二重性を明示している。これはまさしく、自傷的自己愛の典型であり、「虚構だとわかっている愛」にすがりつくしかなかった者の切実な足取りである。

ここで「鏡」が果たす役割も大きい。《好き/鏡越しでも/好き》というラインにおいて、彼女は直接的な対人関係ではなく、「自己像の中の自己」と向き合っている。「鏡越し」というワンクッションは、自己愛の間接性を示すと同時に、それが“他者のまなざしを借りた自己像”であることを示唆している。つまり、彼女は自己を愛したいが、直接的にはそれができない。だからこそ、鏡や数字、幻想を介在させなければならない。

これらすべては、語り手が世界とのつながりを感じ取るための媒介物である。彼女はそれらを通して、自分の「居場所」を必死に確かめている。その必死さは、直接的な苦しみの表現よりもはるかに静かで、だからこそ強い。幻想でも、生きていたい。その願いが、『レビテト』という楽曲をかたちづくっている。

結論|幻想でも、生きていたかった──欺瞞を引き受けるということ

『レビテト』における語り手の姿は、誤魔化しや欺瞞に満ちているように見えるかもしれない。「好き」と言いながら、本当に何を愛しているのかは曖昧なまま、「愛してほしい」とは言わず、「ただの幻想と知って未だにやって」いる──それは一見すれば、滑稽で、哀れで、あるいは自己矛盾の極致であるかもしれない。

しかし、その矛盾をこそ彼女は生きている。誰かに承認されたい、でも真正面から欲しがる勇気もなく、だから“毒”をまとって関心を引こうとする。そのくせに「数字」に安堵し、「鏡越しの自己」にしか愛を告げられない。これはまさに、現代における自己保存のリアルである。

現実と幻想のあいだで裂かれた彼女の姿は、「承認されないまま生きる」という状況のなかで、それでも「生きていたい」と願った者の倫理を映し出している。つまり、『レビテト』は「本物の感情」にたどり着けなかった者の敗北の歌ではない。それは、欺瞞を欺瞞として抱えたまま、それでも自分を生かし続けるための闘争の歌なのである。

語り手にとって、幻想は嘘ではない。それは仮構でありながら、彼女を生かす装置であり、数字や鏡や毒といった媒体は、その装置を駆動させる燃料である。もしもそれらすべてを「くだらない」と切り捨ててしまったなら、彼女はすでに「生きていない」。語り手は、そのことをよく知っている。だからこそ、リフレインする。《くだらないわ/だけど生きてると感じるの》と。

ここには、一見後ろ向きに見える「欺瞞の中での生存」がある。だがそれは、感情のリアルをあらゆる虚構で包み込みながらも、どうにか現実にしがみつこうとする──現代的な感情のかたちである。その姿に自らを重ねるとき、私たちは彼女のように、小さな毒を抱えたまま、確かな数字や歪んだ鏡に救われながら、今日を生きているのかもしれない。

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