導入|ラベルと中身、その倒錯
「ラベル」とは何だろう。
それは本来、中身を説明するために貼られるものだ。だが、内緒のピアスの『ラベル / 星界』においては、むしろラベルのほうが本体を決定しているように見える。
この曲の語り手は、「暴いてほしい」「壊してほしい」と願う。自らの中身を掻き出されたい、善悪も清濁もまとめて飲み干してもらいたい――そうした衝動は、単なる露悪趣味とは違う。むしろそれは、自分の「中身」を自分では扱いきれないという感覚、あるいは、最初から自分に中身など存在しないという不安から来ているようにすら思える。
中身よりも「ラベル」が欲しい。誰かに定義してもらいたい。壊されたいのではなく、「壊されたあとに何者かにされたい」という欲望が、語り手の底に流れている。これは、現代的な実存の一つの形――「自己をつくることよりも、誰かに見つけてもらうこと」のほうが重要になってしまった時代の心情だ。
本稿では、この曲の語り手が抱える矛盾と衝動を、「人格の境界が壊れかけている状態」と「自分自身を定義する権利の放棄」という二つの観点から読み解いていく。そこには、私たちが生きる社会の中で、ひそかに広がっている“名付けてもらう快楽”が潜んでいる。
本論①:壊して、暴いて、定義して──境界喪失の快楽
『ラベル / 星界』の語り手は、何かを欲している。だがそれは「愛されたい」「守られたい」といった穏やかな欲望ではない。「暴いてほしい」「乱してほしい」「壊してほしい」と、語り手は他者に向かって繰り返し要求する。これらの言葉が意味しているのは、自己の内部にある“本性”や“本能”を、自分ではなく誰か他人の手によって暴き出してほしいという願望だ。
それは、ただの受け身ではない。「本性を掻き出して」「この口に含ませて」といった表現に見られるのは、自分の意志では到達できない場所へ、他者の力で連れていってほしいという、ある種の甘えと渇望がないまぜになった欲望である。
ここで注目すべきは、「清濁も善悪も飲み干したら有頂天」という一節だ。これは、正と負、美と醜、すべてをごちゃまぜにした状態にこそ快感を見出しているということだ。明確な善や、はっきりとした秩序ではなく、境界線の崩壊そのものにエクスタシーを感じている。つまり語り手は、自己と他者、善と悪、表と裏といったあらゆる区別があいまいになることを歓迎しているのだ。
そしてその先にあるのが「定義してほしい」というもうひとつの願望である。「壊して」終わりではない。壊されたあと、自分が何者であるかを他者に決めてもらうことで、初めて満たされる。これは自己の内から生まれる主体性ではなく、他者に与えられるアイデンティティに依存する構造であり、現代的な「自己喪失の快楽」として読むことができる。
壊されたい、のではない。壊された上で、名付けられたい。その倒錯した願望こそが、語り手の欲望の正体なのである。
本論②:自己をラベル化する社会──欲望の自己疎外
『ラベル / 星界』の語り手は、自分の中身を誰かに暴いてほしいと願っているが、その中身には確信がない。むしろ彼/彼女が欲しているのは「本質」ではなく、ラベル=外からの定義である。
曲の終盤、「塗りつぶして 君のラベルで」という一節が現れる。これは象徴的だ。語り手は、自分という存在を“君”によって塗り直してほしいと願っている。ただ上書きするのではない。過去も性質も全部を「塗りつぶして」から、新しい意味を貼ってくれ、と求めている。そこには、自己を構築することへの放棄と疲労が滲んでいる。
この文脈で思い出されるのが、「カラーで着飾った中身はただの水だ」「どうせなら君の中で果てさせて」といったフレーズだ。中身の空虚さ、あるいは中身が存在しないことへの不安。にもかかわらず、「泥を塗りたくる」「教育的指導この様です」といった言葉が示すように、社会はその空虚さを見ないふりをして、形式的な正しさや記号的な美しさだけで人を評価する。
語り手はその構造を理解している。だからこそ、「本性」や「本能」を語るふりをしながら、実は**「中身のある自分」をつくることを諦め、「ラベルのある自分」にすがろうとしている**のだ。
このような在り方は、現代社会における「承認の論理」と深く結びついている。SNSにおける「いいね」や「フォロー」といった評価が、自己をラベル化し、消費しやすいキャラクターとして押し出す仕組みを強化している。そこで求められるのは「内面の豊かさ」ではなく、「意味のわかりやすい中身」だ。中身そのものより、中身にどんなラベルが貼られているかのほうが重要視される社会に、語り手は取り込まれている。
『ラベル / 星界』において、「君のラベルで塗りつぶして」という結末は、自己表現の放棄ではない。むしろ、ラベルという外部の記号に、自分の意味を明け渡すという能動的な諦めなのだ。そこには、現代に特有の“自己の外注化”が生々しく刻まれている。
本論③:身体という消費資源──快楽の中の疎外
『ラベル / 星界』の語り手は、自分の心や欲望だけでなく、身体までもが他者のためのものとして描かれている。「君の中で果てさせて」「君の所為で辱めて」といったフレーズに漂うのは、単なる性的なニュアンスではなく、自己の身体を“消費される対象”として差し出す構造である。
ここで注目したいのが、「熟しきって腐りきった蜜でも」と語る箇所だ。甘いものが腐敗し、なおも“味わわれる”という比喩は、語り手自身がどれほど損なわれていても、その身体が他者の欲望に応じる限り意味を持つという価値観にとらわれていることを示している。
快楽のために身体を委ねる――これは決して新しいテーマではない。しかしこの曲における「快楽」は、自分が快感を得るためというより、“他者の快感の一部になること”への従属的な陶酔に近い。語り手は、他者の欲望に巻き込まれることでしか自己の実感を得られない。これは身体の“所有”ではなく、“貸与”である。
さらに「清濁も善悪も溢れ出すほど有頂天」「恥だらけ」といった語句が続くことから、身体を晒すこと・辱められることが、むしろ自己肯定の一種であるかのように語られている。だがその実態は、“感じているフリをしながら空洞をなぞっている”ような構造だ。ここにあるのは、快楽そのものではなく、快楽の演技を通じて自我を維持しようとする苦しい努力なのかもしれない。
このように見てくると、語り手の身体はすでに「自己の一部」として機能していない。他者の視線に、他者の言葉に、他者の欲望に組み込まれ、“意味を与えられるための器”に過ぎない。ここに現れているのは、まさに身体からの疎外である。
自分の体なのに、自分のものではない。
そうしたずれが、この歌詞の快楽的な表現の中に、薄く冷たい影のように差し込んでいる。そしてそれこそが、語り手の孤独を決定づけているのだ。
結論|定義されることの快楽と痛み
『ラベル / 星界』の語り手は、一見すると倒錯的な欲望を抱えているように見える。「壊されたい」「辱められたい」「塗りつぶされたい」――そうした言葉の数々は、痛みや羞恥、喪失に向かう欲望のように思える。だがその奥には、「自己を定義されたい」という、もっと根本的な希求が潜んでいる。
この語り手にとって、「自分はこうである」と語ることは、もはや意味を持たない。むしろ「他人がどう名付けるか」がすべてであり、そのためには、自分という存在を徹底的に明け渡す必要がある。そのプロセスが、「暴かれること」「壊されること」「ラベルを貼られること」として描かれているにすぎない。
このような心情は、現代において決して珍しくない。SNSや承認社会のなかで、私たちはしばしば**「中身よりもタグ」「存在よりも演出」**という感覚に覆われる。「本性」や「本能」といった言葉も、もはや自己発信の手段ではなく、他者に気づかれ、読み取られるための装置として扱われる。
『ラベル / 星界』は、そうした現代の実存感覚を極端な形で体現している。自己の中身を信じきれず、だからこそ他者に暴かれ、定義されることを快楽とする。その快楽は、同時に、自己を他者のラベルに譲り渡してしまった痛みでもある。
語り手は、自分を壊してくれる誰かを待っている。だがそれは、破壊のためではない。壊されたあとに名付けてくれる“君”を待っているのだ。
その切実さと危うさが、この曲を、ただの過激な恋愛ソングでもなく、単なる露悪的な表現でもない、現代的な孤独の寓話として際立たせている。
私たちは、誰のラベルで生きているのだろうか。
そして、それを甘受するかわりに、何を手放しているのだろうか――。
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