序論――深淵に潜む「あたし」
人類には夢がある。恐怖もなく、貧困もなく、争いもない。平和で豊かな世界で、病や死の恐怖さえもない。そんな夢があるはずだ。
ところで、生命にとって「意識」というのはアプリオリに宿っていたものではないらしい。ソマティック・マーカー仮説を引用するまでもないだろう。「意識」は進化の産物なのだ。「意識」があれば、捕食者につかまらない。「意識」があれば、効率よく獲物を捕らえることができる。意識。これはあくまで生命が進化の過程で勝ち取ったものなのだ。
そうであるならば、人類の夢というのは畢竟、「意識」の喪失ではないだろうか。小説で言えば『地球幼年期の終わり』、サブカルチャーでは『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画、ヘーゲルの「絶対精神」も夢のうちに数えてもいいのかもしれない。人類は意識なき世界、自己と他者が未分類だった見果てぬレトロピアを目指している。
稲葉曇によるボカロ曲『超深淵帯』は、そのような夢への憧憬と「生命」の本懐を「あたし」という視点から描いている。
はじめに本論の切り口を宣言しておこう。ここでは『超深淵帯』に描かれている「あたし」を具体的な人物像に落とし込まない。本曲の「あたし」は、これを書いている筆者であり、読者でもあり、さらに言えば人類でもあり、そして生命でもあるのだ。これが突飛な仮説ではないことを次章で説明したあと、この曲が最後、どこに行きついたのか、その結末をみていきたい。人類は、生命は、この曲の中で、はたして大団円を迎えることができたのだろうか。
第一章――補完への憧憬
さっそく前節の仮説の論拠をあげていこう。
まず本曲の特徴である「融点」という言葉。辞書的な意味では物質が固体から液体に変化する温度のことを指す。そのうえで「融点までまたね」という歌詞を照らし合わせると、少なくとも語り手(あたし?)は、固体であることが暗に前提とされていることがわかるはずだ。そのうえで「あと何年経ったら海まで行ける?」という歌詞には、海への憧憬が含まれている。液体、つまり、未分化への憧れが本曲の序盤には散見される。
さらにすすめよう。
「現実的選択に離されてわかったよ」というフレーズ。文字だけであれば誤解を生みそうだが、これは「現実的選択」に邪魔されて(「離されて」)という風に読むことができる。精神分析家・ジャック・ラカンなどが語るところによれば、精神分析の世界では、母と子の分化に最も致命的な影響を与えるのが「父の名」だという。つまり法や掟、その代弁者たるのが父であり、いわば「現実」の象徴だ。そのような「現実」に離れ離れにされたということであるならば、やはり語り手である「あたし」は未分化のなかにまどろんでいた存在だったというべきだろう。
ここまでくれば冒頭の「沈まない空」、鳴らない「揺らした鐘」が非現実的な世界の象徴であるというふうに読めるはずだ。
ここまでくれば繰り返す必要もない。本曲の「あたし」は筆者であり、読者であり、人類なのだ。
第二章――生成への転回
では、この曲はそんな見果てぬ夢——帰りたいと望む融点へのロマンを歌うだけの寂しい作品なのだろうか。
少なくとも私にはそのように読むことができなかった。人類には、生命には、もう一つの夢があるからだ。それは冒頭に記した「生命」の本懐である。
ドーキンス博士の『利己的な遺伝子』いわく、生命は遺伝子の方舟らしい。理不尽にみえる進化、つまりある意味では「不幸」の源泉でもある意識の獲得も、その目的は生きながらえること、自身の遺伝子を遠い未来まで残すことを目的としていた。生命の本懐である。
そして、この願いは本曲にも宿っている。
この曲には一つ奇妙な点があることに視聴者は気づいただろうか。それが「少女」という単語である。結末部分に「少女が温度を残して」という歌詞があるが、この「少女」と言うフレーズがここで初めて登場する。あまりにも唐突と言わざるを得ない。
しかし、これが何を意味しているのかが、ここまで読んだ読者であればわかるはずだ。丁寧にみていこう。
まず、かのフレーズの直前には「融点まで無になる」とある。私たちはここまで「融点」というのが「意識」の消失という夢の換言に位置づけられるというふうに本曲の歌詞を読んできた。そうであるならば、それが「無になる」というのは、この夢の諦めでもあるのではないだろうか。
そして、続くフレーズは「少女」である。私はこのフレーズを「子孫」の言い換えだという風に考える。「融点」への夢を捨て、現実的選択を受け入れ、世界の中で「子孫」を、遺伝子を、紡いでいこうとする。さらにいえば終盤にある「あたしは地球になったの」というのは「親」になることの暗喩ではないか、とも考えられるのだ。「無になる」こと、「地球になった」こと、そして「少女」というフレーズが訴えるのは、一つの挫折と希望なのだ。
結論――歴史という癒し
さて、なぜこの曲が作られたのだろうか。その答えは正直わからない。時代の要請なのか、作家性なのか。だが、「私」という存在の心の機微を歌った曲が溢れかえっている今だからこそ、この曲は異彩を放つ。「心」に振り回される私たちを本当の意味で癒すのは、もしかしたらこのような巨視的な歌なのかもしれないと思わずにはいられない。
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