【歌詞考察】ナユタン星人『エイリアンエイリアン』ぼくらが「エイリアン」になるとき

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序章:その謎は明快すぎる

本論ではボカロ曲の名作ナユタン星人『エイリアンエイリアン』を取り上げる。

しかし一度でもこの曲を聞いたことのある人であれば「どこに考察する余地があるのか」と思うだろう。その疑問はまっとうなものである。意味深なフレーズが並んでいるものの、本曲のテーマが明快だからだ。

端的に表せばこの曲は「エイリアン」と自称する二人の恋模様を描いている。それ以上でも以下でもない。では猶更、この曲の何を「考察」するのかという疑念は尽きないはずだ。

だが、私は思うのだ。この曲の「私」が自らを「エイリアン」と称する必然性はどこにあるのか、と。本論の考察の中心はずばりこれである。何が、「私」を「エイリアン」と思わせるのか。そもそも人が自らのことを「エイリアン」というとき、そこにはどのような背景があるのか。このような問いから本曲の真価が現れる。 ではさっそくみていこう。

第一章:「エイリアン」が生まれるところ

自らのことを「エイリアン」や「地球外生命体」と名乗る曲は珍しくはない。いや、「ぼくら」や「私たち」という二人称という風に限定しても、かのような曲はいくつか存在する。

例えばキリンジ『エイリアンズ』やamazarashi『月曜日』などが挙げられるだろう。ではこれらの曲の特徴は何か。何が自分たちを「エイリアン」と名乗らせるのか。

『エイリアンズ』では、それは街や風景からの疎外だといえるだろう。「僕の街」「街灯」「暗いニュースが日の出とともに町に降る前に」というように「街」に関わるフレーズが多く登場しているのがわかる。つまり、「場所」からの疎外。例えば、なんとなく感じる疎外感や街への嫌悪など、決して少なくない人が感じたことのある居心地の悪さ、自分という存在との噛み合ってなさ。「ここではないどこか」を目指したくなるような衝動の原材料である。この疎外感が「僕ら」を「エイリアンズ」にしている。

次はamazarashiの『月曜日』について。この曲に特徴的なのは「学校」に関するフレーズである。「教科書の芥川」「制服」「学区外」などの言葉が散見されるのは、その証拠だ。しかし、私はここで『月曜日』のモチーフは「学校」からの疎外ではなく「成長」からの疎外だと言いたい。例えば、この曲は先の「学校」以上に「成長」や「将来」を嫌悪している場面が登場する。「明日の話はとにかく嫌い 将来の話はもっと嫌い」や「いつの間にそんなに大人びて笑うよう」が、嫌悪を表している最たる例だろう。

他者と同じ歩調で「成長」すること。同じタイミングで「将来の夢」を持たなければならないこと。このことへの「嫌悪」あるいは「疎外」が、「僕ら」を「地球外生命体」にさせる。 さて、ここまででわかっていただけたと思う。「エイリアン」という自称には、その背景に何かしらからの「疎外」や「嫌悪」が存在する。このフレームワークを『エイリアンエイリアン』に当てはめてみよう、というのが本論の目的なのだ。

二章:かくて「エイリアン」は誕生した

ここで注目したいのは「ココロは恋を知りました」というフレーズである。「ココロ」がカタカナになっていることに注意したい。単なる表記の問題ではない。なぜなら曲の中盤から終盤に登場する「ココロ」は「心」というふうにきちんと漢字で表示されているからだ。これがはたして何を意味しているのか。

もう一つヒントとなるものがある。いや、厳密には「ない」というべきか。本曲には具体的な行動が描かれていないのだ。好意を表現しているところでさえ「駆け出した」や「キスがしたい」といったような具体性を帯びたものではなく「瞳に映らない引力に 気づいてよ」や「交ざりあう宇宙の引力で感じてる気持ちはトキメキ」といったようなオカルトめいたものばかりである。ここで一つの仮説が生じる。本曲に描かれている「疎外」は「アプローチ」ないし「コミュニケーション」なのではないだろうか。

その証拠ともいえる箇所が、本曲には隠されていることも触れなければならないだろう。

実は本曲の最後は「あなたが好き」という言葉で締めくくられているのだが、実際の曲を聞いてみるとこの部分は「しゅき」と歌われている。この曲は「コミュニケーション」が不器用な人間からの語りなのだ。

そして実は、このような「コミュニケーション」からの疎外は、二〇二五年のヒット曲にも描かれている。DECO*27『テレパシ』である。この曲もネットミームを用いてアプローチしようとするものの、それがことごとく上手くいかない恋模様を描いている。

そして、この『テレパシ』で描かれているコミュニケーションから「ネットミーム」を奪うことで、私たちは「エイリアン」となる。 しかし、悲しいかな。逆にいえば、『エイリアンエイリアン』は発表されて約十年ほど経過している現在でも、私たちは、いつでも「エイリアン」になることが『エイリアンエイリアン』と『テレパシ』の系譜からわかってしまうのだ。

結論:再びエイリアンになるとき

いかがだっただろうか。やや駆け足ではあったが、『エイリアンエイリアン』に隠された背景が、これで明らかになったと思う。そして、その背景が今現在も機能してしまっていることはここまで読んでくれた人であれば、納得いただけたはずだ。 私たちはかろうじて「ネットミーム」という共通語らしきものを手に入れた。しかし、歌の子のみも、視聴している媒体も、あらゆる趣味嗜好が細分化していく世の中で、この「ネットミーム」がいつまで有効であるかは、誰にもわからない。この共通言語が再び壊れたとき、私たちは再び「エイリアン」にならざるをえないだろう。

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