ユートピアの場所は、時代や地域によって変化する。「あの頃はよかった」と過去に理想郷を求めたり、到来する未来へ希望を寄せたり。
では、私たちが「なんかいい場所」と指し示す場所は、一体どのようなところで、いつ頃の風景なのだろう。そして、なぜ、その場所が「なんかいい場所」なのだろう。
シャノンの『なんかいい場所』は、それらのアンサーとなる楽曲である。
本論では、シャノン『なんかいい場所』の歌詞の意味をなぞりながら、そこに列挙されている場所が視聴者や語り手にとってどういう意味をもっているのか探っていきたい。
一章:団地からニュータウンへ──「夢の断絶」の風景
まず、この「なんかいい場所」として列挙されているところを整理しておくべきだろう。
「団地」「ガードレールに塞がれた工事中のままの道」「アスファルトの塗装が途切れている場所」などを参照点として挙げておきたい。
このうちの「団地」は、たしかに人々の憧れとなっていた過去があった。高度経済成長の時代、ニュータウンやマイホームの夢より前に「団地」はダイニングキッチンなど、当時の憧れの設備も内包されていたこともあり、55年には多くの羨望を集めていた。しかし、現代ではそのようなイメージを誰も有していないことなど、読者諸兄にも直観的にわかると思う。いうなれば「団地」というのが含有しているのは、夢の跡というイメージなのだろう。
では「ガードレールに塞がれた工事中のままの道」とは何を意味するのだろうか。安直だが、これを私は「夢の断絶」の象徴だと解釈したい。続く「アスファルトの塗装が途切れている場所」も同様だ。
上記のフレーズが暗に示すような大規模な街開発の時代といえば、前述した「ニュータウン」の時代だろう。ニュータウンとは、60年代から80年代にかけて郊外で作られた建物群や地域、それらを含有する構想のことを指し、都市部の人口過密を解消するための政策でもあった。
しかし、90年代になれば平成不況が始まったことで開発の勢いは鈍化、さらに時代が進めば施設がバリアフリーに対応していない、という高齢化問題に対応していない点などが明らかになっていった。
これらのことからわかるように、やはり「ガードレールに塞がれた工事中のままの道」「アスファルトの塗装が途切れている場所」も「夢の断絶」という意味があると考えられる。
さて、これらのことに共通なのは、いずれも「夢の生活」の残骸だということだ。夢を追いかけ、理想の生活、煌びやかな人生のためにこしらえられた生活空間。いってしまえば、仕事でもなく、学業でもない、人生の根幹たる「生活」のなれの果てが、ここでは「いい場所」とされているのだ。
第二章:「人」の不在と隠された関係性の空白
一方で、本曲で挙げられている「なんかいい場所」には隠されているものがある。それが人である。場所というのは、座標や建物の名前だけのことを指すわけではない。「にぎわっている場所」「知り合いがいるであろう場所」というふうに指し示すこともできる。しかし本曲ではそれがない。この曲には人が隠されているのだ。
では改めて考えてみよう。なぜ、この場所が「なんかいい場所」とされているのだ。
振り返ってみれば、私たちには、「理想」の象徴的な場所はなくなっても、それは常につきまとってくるようなメディア環境に身を置いている。
いつでも、どこでも、誰かの理想は自分の理想と入れ替えさせられ、現実の自身の矮小さに落胆する。現実世界のどこかに逃げ込もうとしても、「ゲーセン」や「パチンコ屋」などの寄る辺なき者たちが集まるアングラ感あふれる場所は、今やほとんど見ることができない。
人についても同様だろう。趣味嗜好別に自身をラベリング化することで、話題や関係性の「想定外」は激減した。誰かが作り上げたプラットフォームと、品行方正なコミュニケーションのなかで、私たちは本音を隠す。そうすることが「マナー」であるかのように。
こうして整理することで、私たちが『なんかいい場所』が、なぜ「なんかいい場所」なのか、その理由を得ることができる。
結論:失われてから気づく場所──現代におけるユートピア像
おそらく私たちは「人工物」に飽きたのだ。夢の残骸、夢の跡。これらの廃墟のうえに再び覆いかぶさるのは、誰も整備しない、誰とも出会わない、自然の場所だ。
この「なんかいい場所」で列挙されている場所は、一昔前であれば「ファスト風土」と呼ばれていた光景だろう。つまり、全国的に隆盛をほこった「団地化」と「ニュータウン構想」、その反動として現れた、地域の独自性が失われた場所「ファスト風土」。90年代や00年代は批判の対象だった風景も、私たちは今や望郷として懐かしんでいる。
少年犯罪の温床といわれた場所も、煌びやかな理想から遠ざけ、人を孤独に「してくれる」という意味では有意味だったと今になって思う。 今や、地名が含まれている流行歌は無いに等しい。しかし、そのようななかでも、私たちは「場所」に愛着をもってしまう。色々と問題含みな場所であったことは間違いない。しかし、それでも、どこかの誰かにとっては、必要な場所だったはずだ。私たちはいつも失ってから気づく。そういうものを人は「ユートピア」と言うのかもしれない。
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