【歌詞考察】Omoi『私vs世界』「私vsお前」の時代に抗う声

Omoi

序論:『私vs世界』の時代精神を読む

この曲を製作者の心の声とするか、一つの時代精神とみるか、論者によって見解は分かれるところだろう。思うに前者のほうが大多数であるような気がする。

そうであるならば、そのような視点からの考察はその者たちに譲ろう。凡百の評者に任せよう。

ここではOmoi『私vs世界』を一つの時代精神としてみる。読み手にとっては不快に思う部分があるかもしれない。しかし、それでも書こう。この曲に刻まれた精神を、歌詞に沿って。

製作者メッセージにもあるとおりこの曲は「反駁の歌」である。換言すれば怒りの曲でもあると思う。ここで論じるのは「怒り」の部分である。そこに宿る一つの懐かしさである。私たちはこれから、その懐かしさを確認していくのである。

一章:「世界」と「セカイ」の語感の差異

タイトルからわかるように、「私」は「世界」と対立している。この構図自体が実は相当に古めかしいものだとわかる読者はどの程度いるだろうか。

九〇年代からゼロ年代にかけて「セカイ系」という言葉がサブカルチャーを語る上でのキーワードとなっていた。「僕と君」、あるいは「僕」の自意識が、世界の命運と直結するような物語だ。代表作としては『新世紀エヴァンゲリオン』『最終兵器彼女』などが挙げられる。そして本曲のタイトルも、歌詞内容も、この構図を模していることは誰の目にも明らかだろう。「君のことを取り戻したいんだ」という一節も、先の図式を補強する歌詞だろう。

ただ一つだけ差異を挙げるとすればタイトルの「世界」という言葉だ。「セカイ」ではなく「世界」。前者のニュアンスはひどく観念的な響きを漂わせる一方で、後者のほうはまだ具体性がある。

しかし、である。

それ以外の部分、歌詞に目をやれば本曲は全体としてひどく抽象的な言葉に彩られていることがわかるだろう。ゆえに、ここには想像力を働かせる余地がある。「世界」というのが、より具体的には「制度」なのか「文化」なのか「誰か」なのか。聞き手によって解釈は別れるだろう。本曲を製作者の心の声とみるならば、製作者の活動を追わなければならない。しかし、その方向性は本論の序章の宣言を裏切ることになる。

そうであるならば、ここでも宣言どおり、本曲の「懐かしさ」に目を向けるべきだろう。そのためには最近の「怒り」の曲と本曲を比較するべきだ。

二章:具体性の時代――ano『ハッピーラッキーチャッピー』との比較

恣意的であるという批判は甘んじて受けよう。それでも本曲に連なる「怒り」の曲としてあげたいのはano『ハッピーラッキーチャッピー』である。なぜ、この曲を取り上げたか。その理由は、この曲の歌詞にある具体性に注目したいからだ。着目すべきは次の二点。

「腐ってるのは地球の方だから うまく歩けない」

「腐ってるのはお前の方だから うまく笑えない」

まず「地球」という部分である。この表現は「セカイ系」との大きな断絶がある。『ハッピーラッキーチャッピー』が十年前に発表されていたならば、この部分は「腐ってるのは世界(セカイ)の方だから」となっていたはずだろう。

地球。私たちの肉体が直立したり、歩行するために必須の大地。「うまく歩けない」という身体性を鑑みるならば、「世界」より「地球」のほうがはるかに具体性を帯びている。

さらに「腐っているのはお前の方だから」という歌詞にも同様のことが言えるはずだ。

もし「腐っている」と評する怒りの対象が、少しでも抽象性を持つならば「あいつ」という言葉になるのではないだろうか。「お前」という言葉は、対象が目の前にいなければ名指し得ない。激烈な具体性である。憎々しいどこかの誰かではない。「誰でもよかった」というカテゴリを無効にする、目の前の「お前」に向けられた憎悪。

私の考えでは、『私vs世界』に感じる「懐かしさ」の正体とはこれである。

「世界」や「セカイ」という言葉では、それが具体的に何を指しているのかは解釈の余地があった。つまりそれは一つの連帯の可能性だったのではないかと私は思う。「世界」もしくは「セカイ」という言葉、記号によって、私たちは議論ができ、熟議が可能となり、なにより孤独が和らいだのではないだろうか。「セカイ」の前にして惨めったらしい敗北をしたとしても、大丈夫だった…。はずだった…。

結論:懐かしさに宿る微かな希望

議論を練り上げるという意味、「敵」や問題点を精査するという点では、言葉が具体性を帯びていくことは歓迎すべきことだ。しかし同時に、そのような状況は「味方」「敵」の分断を深める危険性はないだろうか。昨今の情勢を見ると、この懸念は決して杞憂ではないように思われる。『私vs世界』というある種の幸福な状態は、「私vsお前」のような殺伐とした状況に転じてしまったのだろうか。この認識の是非は読者に委ねたい。

誤解を恐れずにいえば、『私vs世界』を題材にした本稿は、当該曲が「古い」と言っているというふうに取られかねない。「懐かしさ」を探っていくと言っているのだから、そのように受け取られることも無理からぬ話だ。

しかし、私自身はそんな「懐かしさ」に微かな希望をみる。願わくば「私vsお前」という具体性によって雁字搦めになっている構造が、本曲によって少しでも解けることを祈らずにはいられない。

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