序論:「情報の病」としての挑発――『インフォデミック』序論
挑発的な楽曲である。
本論でとりあげるのは、しゃいと『インフォデミック』だ。タイトルからも直観的にわかるように、この曲は情報が氾濫した現代社会、それに溺れる私たちのことを風刺した作品となっている。
推論にはなってしまうが、タイトルの「インフォデミック」というのも「インフォーメーション(information)と「エピデミック」を掛け合わせた造語だろう。なるほど、情報に溺れる様子をひとつの「病気」とみるのは、冒頭で述べたとおり挑発的であり、多くの人には納得のいくものかもしれない。
先に言わせてもらえれば、筆者はいくぶんか捻くれているので『インフォデミック』という作品に対して向き合うことはない。本論で試みるのは、この作品の構造の転覆である。それは前述した「納得」の破壊であり、私たちの認識への断罪となっているのだ。
本論を最後まで読んだとき、楽曲に描かれている「患者」を笑える読者はどの程度いるのだろうか。
一章:デマは時代を超える――豊川信用金庫事件とSNS炎上
人間が「情報」によって認知を歪められるというのは、マスメディアの研究においては、幾度も分析の対象になっている。その対象となっているのは「デマ」や「噂」の類だ。『インフォデミック』においても、「真実さえ蝕んでいけ」「チグハグの正誤」という歌詞が並んでいるように、インターネット上の「デマ」や「噂」に振り回される人たちのことを歌っていることは、ほとんど間違いないだろう。
さて話を戻そう。このような「デマ」や「噂」によって人々が暴走することは、決して新しい問題ではない。先の震災やパンデミックだけではない。例えば七三年に起きた『豊川信用金庫事件』のことをご存じだろうか。事件の概要を説明すると「愛知県を中心に「豊川信用金庫が倒産する」というデマが流れたことから取り付け騒ぎが発生し、短期間(二週間弱)で約14億円もの預貯金が引き出され、倒産危機を起こした事件」である。
驚くべきことのにこの事件の発端は、電車内で起きた女子高生三名の雑談だった。詳細は別の資料に譲るが、いうならば未成年の少女たちによる噂話によって、多くの人々が振り回された事件であり、現代でも社会学や心理学、マスメディア研究の題材として取り扱われている。
この事件の下地にあるのは、当時の社会不安であることはほとんど間違いない。オイルショックなどによる不景気があったためだ。この事件を笑い話として消費するのは簡単だ。しかし、いま私たちがSNSで目にしている炎上の多くは、この構図とまったく変わらない。そして同時に「それで、結局何が言いたいんだ」と思うことだろう。お答えしよう。ここで述べたいことは『インフォデミック』で描かれているような暴走は、その下地さえあれば、誰だって成りうる、本曲のテーマに応じていえば誰でも「感染」することがあるということだ。
二章:正義という暴走――「病を病とみなす病」の罠
さて、本題はここからである。本論で問題としたいのは、そんな「感染」を一つの「病気」と認識する本曲の構図だ。
病気というのは、時代によって作られたり、消えたりする。これは認知、あるいは社会の需要の問題でもある。例えば「DSM-5」という物議をかもした診断基準などが挙げられるだろう(知りたい人がいれば是非検索してみてほしい)。あるいは、ある個人の特定の行動パターンや傾向は「個性」なのか「病」なのか、という議論を見聞きしたりしたことのある人は多いはずだ。
そのような前提を踏まえたうえで、『インフォデミック』という楽曲は「噂」や「デマ」に右往左往することを一つの「病」と断罪する。一方で前節でみてきたように、かのような「暴走」のベースには社会不安の存在を見過ごすわけにはいかない。
そのうえで、私たちはこのように自問しなければならない。果たして「インフォデミック」に見舞われた人たちを、なぜ私たちは「病」と認識してしまうのだろうか。なぜ、「感染者」を「異常」と見なし、「治療」すべき対象とし、彼らを批判する我々を「正」とするのだろうか。その特権的自意識は、一体、どこからきたのだろうか。
この問題に十分な答えを持ち合わせている人は少ないだろう。彼らを「病」と見なすこと、それ自体が「正義」と認識している限りにおいては。
私は思わずにはいられない。『インフォデミック』で展開されている認識も、すでに一つの暴走なのではないだろうか、と。歌詞を引用するならば「誰もが不正解でしかないのに/また手を下して/神を気取ってしまっている」のではないだろうか。
そう。しゃいと『インフォデミック』という楽曲には、このような構造的な罠が潜んでいる。非常に切れ味の鋭い、思わず苦笑いがこぼれてしまうような歌詞内容なのであり、ここで問われているのは、他人ではなく私たち自身だ。
ただ、このような問いは誰も「正解」を持ち得ていない現状では無限に後退する。誰かを「病」とするその「正しさ」を信じるその瞬間が、次の暴走の入口だからだ。
私たちは、このような不毛なゲームを終わらせなければならない。
結論:残された問い
「『インフォデミック』が突きつけるものは、単なる風刺ではない。それは読者であるあなた自身に、『安心』と『不安』の境界をどう引くのかを迫っている。前々節で述べたことだが、先の「暴走」の原因の一つは社会不安である。私たちにとって「安心」とは何か。なにが私たちを「不安」にさせているのか。問われるべきは、ここである。残念ながら、本論の対象である『インフォデミック』には、この問いに対するアンサーは見受けられない。問題は提起された。あとは視聴者が考えるべきなのだろう。 そして回答期限は、もう長くはないように感じずにはいられない。
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