序論:尾崎の影の向こう側
この曲、好きだ。
はまたい『尾崎にバイクを盗まれて』を聞いて、そんなことを素直に思った。
未試聴の人はぜひ一度聴いてほしい。
「尾崎にバイクを盗まれて自由をなくした人がいる」
このような歌詞からわかるように、本曲は若者の象徴であった歌手・尾崎豊の曲に対するアンサーと思って間違いないだろう。けれどこの曲は、単にアンチ尾崎、あるいはアンチ暴力ということを歌っているわけではない。尾崎になれなかった僕たちを、憐れんだり、同情しているわけではない。だからこそ、この曲は多くの人に聞いてもらいたい。その理由を歌詞を追いながら書いていこうと思う。
一章:憤りの矛先はどこにあるのか
今、僕たちは何に憤るべきなのか。『尾崎にバイクを盗まれて』は、まずこのことを明確化してくれる。とはいえ冒頭の「金持ちの娘が環境を守れと宣う」という歌詞から、富裕層への怒りなのか、と思ってしまうのは早計だ。
怒りの対象を描いている部分は他にもある。「ピースを歌いながら後輩バンド殴る」といった中盤の歌詞がそれに当たる。では、このことから言動不一致の存在が怒りの対象なのだろうか。
たしかにそうかもしれないが、では本曲が「裕福層」と「言動不一致」という存在への怒りを描いているのかと問われれば、僕は素直に首肯できない。これだけではタイトルや冒頭で示したとおり「尾崎」を引き合いに出す意味がわからないからだ。
まだ僕たちにはヒントが足りない。次に本曲の後半にある「それは努力が足りませんな」と嘲笑を受けている箇所に注目しよう。この部分は前段に「努力すれば必ずあなたの夢はかなう」という言葉を信じて頑張ってきた人の存在がある。「足りませんな」の部分は、そんな人への嘲笑というわけだ。
いかがだろうか。このように並べてみると、歌詞中の語りでは、かなり手あたり次第に、僻みにも似たような怒りを持っている人と思うだろうか。しかし、そんな風に思うのだとすれば、僕はそんなあなたが「持っている側」の人だからではないかと思わずにはいられない。
僕がこの曲の憤りの対象について思うことは一つだけ。彼らには誠実さがない、ということだ。
二章:誠実さを放棄した人々の姿
言い換えるならば、この曲のメッセージは「誠実であれ」というものであると思う。
他者に対して誠実であれ。人に歴史ありという言葉があるように、どんな人にも積み重ねてきた決断と人生がある。それがたとえ愚かのように見えたとしても、真剣な取捨選択の結果なのだ。
しかし、本曲のなかに登場する人物たちは、そんな誠実さを放棄している。環境を守ることは正しいだろう。しかし、正しさで腹は膨れない。そんな事実を無視する正義は、ただの自己満足だろう。平和を歌うのと同じ口で、他人を罵る人がいる。そんな人の言葉に耳を傾けるべきなのか。
そして何より尾崎豊。なぜ、自分の「自由」が他者に対して特権的であると思えるのか。本曲の歌詞は、そんな特権、自惚れに対する強烈な批判の歌である。もちろん、「自由」への衝動があってもいいだろう。事実、尾崎の歌は「自由になれる気がした」とあるのだ。衝動的に獲得しようとした「自由」に対して、幾ばくかのうしろめたさ、どこかシニカルな匂いを漂わせている。
とはいえ、曲中にある「あいつらは綺麗事を並べただけで勝ち誇っている」という歌詞から、漫画『Thisコミュニケーション』の台詞を僕は思い出す。
「テメェのコミュニケーションは全部それなんだよ! 「正しいからいいだろう」っつって何もかも端折って! 積むべき誠実さを放棄している!」
結論:絶滅危惧種となった倫理のために
序論で述べた「理由」について、これまでのことから明らかに出来たと思う。
誠実。現代において絶滅危惧種となっているようなこの倫理がやっぱり必要なのだ。「人は人」、「騙される方が悪い」となってしまっては、「誰でもよかった」という暴力があふれ出す。そんな光景を僕たちは見てきたはずだ。
この曲は、人と人とがひしめき合う「社会」というものに本当に必要なものを歌っている。そんな真摯な姿勢でいるこの曲が、僕は好きだ。
ただ、ここで強調してきた「誠実さ」にも危険な部分はある。誰かの後ろめたい過去を暴き、「誠実ではない」と言い、反省のうえに積み重ねてきた一切のものを壊してしまうようなことだってありえるだろう。
だから僕らは油断してはいけない。盗まれたからといって、別の誰かのバイクを盗んではいけないはずなのだ。それでも「悔しい」と思ってしまうとき、思わずにはいられない夜には、この曲を聞いてほしい。
抱え込んだ怒りを、きっと代弁してくれるだろうから。
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