序章:「愛」の耐用年数について
言葉遊びからはじめよう。90年に『愛は勝つ』という曲がヒットしてから約20年後『愛にできることはまだあるかい』という歌が某大ヒットアニメ映画の主題歌となり、多くの人が耳にすることとなった。この2曲を並べてみると、どうやら「愛」というものの耐用年数は20年程度らしいということがわかる。
なんていう冗談は置いておくとして、とにかく「愛」というものについて世間は、割と冷ややかというかシニカルな視線を投げかけていることがわかるはずだ。
ではピノキオピー『愛属性』という作品も、そんな皮肉な姿勢に同調するようなものなのだろうか。
答えは否である。もちろん歌詞を文字通り受け止めると、そのように思えてしまうかもしれないけれど、ピノキオピーという製作者の傾向を踏まえれば、この曲の本当のメッセージが浮かび上がってくる。どういうことか。それを本稿ではみていきたい。
一章:『愛属性』に描かれる脆さとシニシズム
まず、この曲の歌詞内容を押さえておこう。
メインテーマとしては「愛」の特徴をあぶりだそうとしている点にある。
「愛は嘘に弱く」「愛は権威に弱く」等々。
列挙されている特徴から、少なくとも本曲内で「愛」はとても脆いものだとされている。そして、その脆いものに毒されている者たちに対して、本曲は冷ややかな視線を投げかけている。例えば「現実を前に倍のダメージを食らいます」という部分などがそうだろう。
さらにいえば、その直前に「火が水で消えるように」といった「自然の摂理」と同列に語っているあたり、「愛」というやつが生み出す幻想を、いつか潰えるもの、それはどうしようもないもの、という温度でとらえていることが分かるのではないだろうか。
かつてスピッツが名曲『チェリー』のなかで「”愛してる”の響きだけで 強くなれる気がしたよ」と歌ったが、『愛属性』に描かれているものは、その「気がした」について、これ以上ないほどの「現実」を叩きつけるものなのだ。
もちろん、『愛属性』が「愛」についての期待を全くしていないというわけではないだろう。事実、歌詞の中には「愛は日々を照らして」など、「愛」への期待も描かれているのだから。
しかし、ここで我々が疑問を抱かなければならない。この「愛」に対して徹底的に「現実」をぶつけ、幻想を破壊する歌詞のメッセージとは何なのか。わかりにくければ言い換えよう。『愛属性』の歌詞に描かれているメッセージは、いずれも「今更かよ」と言いたくなるような内容なのだ。
『愛にできることはまだあるかい』という曲だけではない。前述した『チェリー』の「気がした」と歌っているとおり、「愛」に関する歌には、どこかシニカルな視線を持ったものが多くある。
そこで次節では、この「今更」の謎について迫っていきたい。
二章:希望と絶望、二つの“過剰さ”
ボカロPのピノキオピーといえば最近では『T氏の話を信じるな』『超主人公』などがあり、代表曲の一つである『神っぽいな』は多くのVtuberにカバーされている。
ここでピノキオピーの仕事について深く考察することはしないが、作品群の特徴についていえば「過剰さ」が通奏低音にあると思う。『T氏の話を信じるな』は「信仰」。『超主人公』は「強さ」、『神っぽいな』はネット空間に現れるインスタントな「ネ申」の過剰さについて歌っている。
その点でいえば、『愛属性』も二つの「過剰」について歌っているといえる。それは「愛」に対する「希望」と「絶望」だ。
前者については「愛は最後に勝って」云々という箇所だ。そのように信じたくなる気持ちもわからなくはないが、視聴者や本稿を読んでいる読者諸氏も、そのような幻想を徹底的に信じている人はいないだろう。
とはいえ後者の「絶望」については「愛は嘘に弱く」「愛は権威に弱く」と列挙されている箇所が、そのことを表しているのだが、これはこれで大袈裟な表現だろう。特に「愛は金に弱く 愛は風評に弱く」という点について、それなりの人生経験を積んできた人であれば「人による」と思うのではないだろうか。金に弱い愛しか育めない人もいるし、風評に弱い愛しか知らない人もいる。例えば、昨今の多様性に関する議論などから「愛は権威に弱く」というのもおよそ首肯しがたい。
このように、「希望」にせよ「絶望」にせよ『愛属性』で歌われている内容は非常に極端であり、いわば「過剰さ」の表現であることがわかるだろう。
このような議論ののち、私たちの問いはようやくスタート位置につくことができた。つまり、この「過剰さ」の溢流にはどのような意味があるのか、と。
思うに、この「過剰さ」をもって私たちは私たちなりに「愛」というものを考えたり、フラットな感覚でそれを感じたりすることができる。希望するでもなく、絶望するでもない。本曲で歌われているように、誰かを好きになることで「現実」から手痛いカウンターを受けることもあるだろう。だから傷つかない無邪気な恋が「愛」と感じる機会があるかもしれない一方で、喧嘩を重ね、心に多少の傷を負いながらでも手放したくないと思った感情が「愛」だったりもするのではないだろうか。名前の付かないような小さな気遣いに愛情を感じることもあれば、好きだから別れるなんていう選択をする可能性が長い人生であるかもしれない。
『愛属性』で列挙されている様々な「愛」。
これらにすべて「?」がついているのは、そのどれもが当てはまるかもしれないし、当てはまらないかもしれない愛あるいは心との出会いの婉曲表現と思えるのは私だけだろうか。
結論:過剰な時代の上手な泳ぎ方
「過剰さ」を呼び水にし自分を見つめなおす。『超主人公』などが顕著だが、ピノキオピーの作品群にはそんなメッセージがいつも見え隠れする。
生成AIだけではない、文字情報、流行、それらの移り変わりの速度。あらゆるものが過剰に生まれ、過剰に過ぎ去っていく。
そんな現代だからこそ、ピノキオピーの仕事は多くの人に愛されるのかもしれない。そして、だからこそ、この『愛属性』も多くの人に聞かれているのだと私は思えてならない。
動画、音楽、映画。その他もろもろのサブカルチャー。ネット空間の嘘本当。この「過剰さ」による熱狂は、まだまだ続くだろう。
しかし、その熱狂を逆手に取り、魅力的な作品に昇華させている。私たちが熱に浮かされている間、ピノキオピーの作品は私たちを魅了し続けるにちがいない。
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