【歌詞考察】ryo『初めての恋が終わる時』“根拠なき運命”の恋と別れ

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序章:ボーカロイドが、はじめて涙を覚えたとき

ボーカロイドの歴史。その黎明期は『メルト』以前と以降に分けられる。前者はキャラクターとしての色が楽曲に色濃く表れていた時代であり、後者はボーカロイドを人物とし、その内面を描くといったものである。

このような区分けでは本論で扱う曲『初めての恋が終わる時』は後者に時代的にも作風的にも位置づけられるだろう。

この曲はいわば失恋ソングというものになるだろう。タイトルがそうであるし、歌詞のなかに「切ない片思い」とあるのだから。そのうえで本論の主題は、この恋がなぜ終わってしまったのか、という点に置きたい。

「そんなのは視聴者の想像に委ねられているだろう」と開き直ってしまうこともできるが、同時代のカルチャーを見渡してみると、そこには妙な符号があるのだ。それらを暴いたとき、この曲で描かれた恋が終わった本当の理由がわかる。ではさっそく見ていこう。

第一章:距離は本当に別れの理由になるのか

まずは状況を整理してみたい。すでに述べたように『初めての恋が終わる時』は失恋ソングである。そのうえで、この曲に描かれている人物たちは駅、あるいはその周辺にいることが歌詞からもわかる。「もうすぐ列車が来るのに」という歌詞など、一度でも本曲を聞いた人であれば明白だろう。

つまり、何かしらの事情があり、この二人は物理的な距離という意味で別離を強いられているのだ。季節が冬であることを鑑みれば、進学や就職、あるいは転校など人生のイベントと重なってしまったのだろう。

ところでこの曲が発表された年を知っている読者はいるだろうか。答えは2008年。ニコニコ動画に投稿されたのだ。『メルト』の1年後である。

これが例えば95年以前の曲であれば『初めての恋が終わる時』の別離はより深く理解できる。通信手段が限られているからだ。携帯電話が普及したのは00年代に突入したばかりのときであり、それ以前は電話や手紙、あるいはPHSなど(当然のことながら)現代ほど手段は潤沢ではなかった。そうであれば、描かれている別れについても、それが今生の別れになるかもしれないという予感は否が応でも脳裏をよぎることは理解できる。

しかし、である。

2008年であれ携帯電話は充分に普及しており、多くの人がメールを活用していた(ちなみにいえば、この当時すでにiPhoneが発売されていた)。完全とは言わずとも、距離の問題によるコミュニケーションの頻度などは解消されたかのように思える。ゆえに物理的な距離は、はたして別れの強い理由になるのだろうか、という疑問さえ浮かんでくる。

さて、ここで冒頭に記した「妙な符号」について話しておこう。

この当時、「ぼくときみ」の間に横たわる「距離」の問題が様々な音楽やアニメにも見受けられていた。本曲と同じモチーフの作品がいくつか見受けられたのだ。

例えば音楽であればBUMP OF CHICKENの『車輪の唄』。後者であれば25年現在、実写映画化を果たすほど根強い人気がある新海誠の『秒速5センチメートル』である。

いずれも00年代の作品でありながら、二者間の距離が別れを強いるという構造を共にしている。なぜこのようなことが起きたのだろうか。このことを考えるために、私たちは時計の針を少しだけ戻さなければならない。

第二章:偶然の出会いと別れ——「根拠なき運命」の時代

時は80年代。都市では「ナンパ」がブームとなり始めた(出版業界においても『話が早いナンパの話』などのハウツー本が流通したぐらいだ)。このブームの詳細な分析は割愛するが、ここでいえるのは「ぼく」と「きみ」の出会いというものが「偶然」に依るものだということが人々に強く意識され始めた時代であったということだ。地縁や地域共同体などの拘束は無意味化した。言うなれば、「運命」を信じられたと同時に「運命」を信じられなくなった、ということでもある。彼・彼女らの出会いに根拠などない。単なる偶然であり、出会いが一秒でもズレていれば、別の誰かとそれぞれ出会ってしまっていた。そんな表裏一体の感覚が生まれ始めた時代でもあった。

そして、この根拠の乏しい出会いという感覚は先程挙げた『秒速5センチメートル』などにも反映されることになる。例えば作中で主人公はヒロイン・明里との再会の直後このようなことを独白する。

「僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、はっきりと分かった。僕たちの前にはいまだ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間がどうしようもなく横たわっていた」

連絡手段の乏しさ/豊かさが問題などではない。偶然の出会いは、偶然によって上書きされる。そんな直観が、別れを誘発させる。偶然によって、愛していたはずの「きみ」も「ぼく」も変わってしまう。人生のイベントは、その直観を行動に移すための大義名分にすぎないのだろう。

『初めての恋が終わる時』も、そんな不確かさを描いている部分がある。例えば最後の歌詞。「来年の今頃には/どんな私が居て/どんなキミがいるのかな」。

結論:「思い出になるなら」——諦念とその問い返し

『初めての恋が終わる時』の歌詞のなかで、最も胸が締め付けられる箇所は「初めて作った手編みのマフラー/どうしたら渡せたんだろう」という部分だと個人的には思う。このことについて「思い出になるなら/このままで構わない/それは本当なの?」と歌詞の中で自問自答しているが、やはりこの部分でも、前述の不確かさに翻弄されている様子がよくわかる。

「どうせ思い出になる」。

そんな諦念がこの歌詞には込められているが、それに対する「本当なの?」というのは、そんな諦念がどこからやってくるのかわからないという戸惑いが現れた結果だろう。

繰り返すが、問題はツールではなく根拠だった。だからこそ、この部分は「どうしたら」という一見手段に対するように見える問いが、心情の問題へと変化しているのだ。

さて、いかがだろうか。

この曲がいまだに多くの人に聞かれ、カバーもされていることを鑑みれば、私たちはいまだに、根拠なき運命という茫漠とした不安を抱え続けていることになるのかもしれない。

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