【歌詞考察】Sakuzyo『怪獣になりたい』――夢の中でしか、壊せない世界

Sakuzyo

序章:恐怖の象徴としての怪獣

『パシフィック・リム』という映画で「カイジュウ」という言葉が登場したとき、特撮ファンたちは歓喜したことだろう。怪獣。日本人にとってなじみ深い言葉が、ハリウッドから受け入れられたのだから。

今回、考察の対象にしたSakuzyo『怪獣になりたい』は、しかし、そんな怪獣をユーモラスな形にし、ポップに歌い上げた作品である。

しかし、言うまでもなく元来怪獣というのは恐ろしい存在だ。街を破壊し、辺り一面を焼け野原にする凶暴さを有している。

だが、本当に恐ろしいのは、その正体である。これは、その怪獣が登場するストーリーの中での話を言っているわけではない。我々のなかにある、特定の対象への恐れが怪獣の正体である、という人文的な話だ。

次節では、このことを少し具体的に見ていこう。そうすることによって『怪獣になりたい』という歌の味わい深さを私たちは知ることができる。

第一章:怪獣が背負った“人間の後ろめたさ”

『ゴジラ』シリーズという日本の名特撮映画がある。今は亡き評論家・加藤典洋によれば、ゴジラというのは戦争で亡くなった日本軍たちの亡霊的な存在だったという。ゴジラが放映されたのは1954年。敗戦から10年も経過していない時期だった。まだ街の至るところに戦争の傷跡があったものの、経済においては高度成長期を迎えていた日本人は、敗戦のショックから立ち直ろうとしていた。

しかし、かつては「本土決戦」「総一億火の玉」と宣わっていたにも関わらず、本土での決戦を避け、終戦を迎えた人々には、後ろめたさもあったのだろう。敵としていた「アメリカ」の軍事的庇護のなか、経済成長に必死になっているのだから。それは、人によっては、旧日本軍として死んでいった人々への「裏切り」でもあった。

そんな後ろめたさ、ひいては裏切った兵士たちへの恐怖が「ゴジラ」となった。詳細な論証は『さようなら、ゴジラたち』を読んでほしいが、いずれにせよ「怪獣」の系譜、その始祖であるゴジラの正体は、人々が有していた恐怖心でもあった。

もう一つ例を挙げれば『ガメラ』もそうだろう。平成ガメラシリーズは、「ガイア理論(地球と生物が相互に影響しあうことで、地球がまるでひとつの生き物のように、自己調節システムを備えるとする理論)」を題材としていることがよくわかる。言うなれば、地球というシステム、生態系という仕組みが破壊されることの恐怖が、ガメラシリーズに登場する怪獣の存在を成り立たせているというわけだ。

さて、以上は前座である。このように「怪獣」という存在が、表層的であれ、深層的であれ、特定の対象への恐怖心の象徴であるならば、このような観点から『怪獣になりたい』の歌詞をなぞっていったとき、どのようなことがわかるだろうか。

第二章:想像力が現実に追い越されるとき

まず気を付けなければならないのは、本曲では語り部が「怪獣」になりたい、と主張している点だ。前節のことを踏まえるならば、この語りは、語り部は人々にとっての、なにかしらの恐怖心の象徴になりたい、ということなのだろう。その観点から歌詞を読めば、語り部の心性はいわゆる「無敵の人」や暗殺者のようなものと同型だということがわかる。例えば「それでも役立つ何かにはなりたい」「爪痕をせめて刻めるなら」という理由から「怪獣になりたい」と語っている点がそうである。

しかし。

しかし、である。

前述のように考えると、この歌には妙に捻くれた部分がある。

MVにおいて、怪獣である語り部は、確かに街を破壊するが、そのなかでも唯一明確に「壊した」とわかるものがある。それが「悪徳企業」である。

街々を焼け野原にしながらも、明確な意思をもって「悪徳企業」を破壊する。いわば、身近なものを破壊するために、周囲ごと焼き尽くす。この心性を私たちはどのように解するべきなのか。

実はこれと同型のアニメ作品がある。『ゾン100〜ゾンビになるまでにしたい100のこと〜』だ。この作品のあらすじとしては、連日のパワハラやサービス残業で自殺を思いつめるほど疲弊していたブラック企業社員のアキラという主人公がいる。そんな日々のある朝に起床した彼の視界には、ゾンビで溢れかえる街の光景が広がっていた。アキラはその様子を見ながら「今日から会社に行かなくてもいいんじゃね?」と歓喜し、そこから自分のやりたいことをゾンビがうごめく世界のなかで行っていく、というものだ。

ここには重要な示唆がある。想像的なディストピアよりも、身近な現実への嫌悪というものだ。批評家・マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』のなかにある「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」という言葉を想起せずにはいられない。

事実、『怪獣になりたい』のMVにおいて語り部の破壊行為は、夢の中で行われている。しかしそのような想像的・空想的な世界のなかに登場した、唯一の具体的な破壊対象は「悪徳企業」という現実的なものだった。

そのようなことを踏まえると、私は、次のように思わずにはいられない。

想像力が生んだ恐怖よりも、現実への憎悪が勝ったとき、人は「無敵の人」になるのではないか、と。

結論:想像力の死を超えて

皮肉なことに、『怪獣になりたい』が含有している構図は、極めて調和がとれているものなのである。現実を生きる我々は、「無敵の人」といったような、抽象的、いや、想像的な他者に恐怖する(=怪獣を生み出す構造)。しかし一方で、怪獣となった人は、想像よりも現実に対して恐怖している。

高度経済成長のあとに訪れた「政治の季節」は、いわば観念が、若者を凶行に走らせた。しかし、そこから半世紀以上経った今、私たちを凶行に走らせるのは、現実、なのである。私たちは想像力の豊かさに、人々の救済の可能性を見るべきなのか。それとも現実の改良に奔走すべきなのか。そのように私たちは問われているのだ。なぜなら、次の「怪獣」の出現を食い止めるのは、ヒーローなき世界では、私たちの使命なのだから。

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