【歌詞考察】とあ『ツギハギスタッカート』痛みを“思い出”に変える方法について

とあ

序論:別れの気配を見つめた記憶から

この二人は、きっと別れるのだろう。

そんなことを思ったことがある。

とあによる楽曲『ツギハギスタッカート』の考察を始める前に、少しだけ昔話に付き合ってもらいたい。

当時、大学生だった筆者は、サークルの飲み会の帰りの電車内で知り合いのカップルと鉢合わせた。私と彼らの間柄は良好だったにも関わらず、そこはかとなく空気は重かった。彼らは互いに眼も合わせなければ、言葉も交わさなかった。お互いに避け合っているような嫌な空気が、そこにはあった。この二人は、きっと別れるのだろう。彼らをみてそんなことを私は思ったのだ。

『ツギハギスタッカート』という曲は同じような場面を歌っていると思う。

ただ、ここに私は「正しい」悲恋の作法をみる。

本論では前半で『ツギハギスタッカート』の素直な解釈を改めて提示したあと、後半部で、この曲が教える「正しい」悲恋の作法を開陳してみたい。

一章:“痛い恋”を生きる二人の姿

この曲は語り部である「僕」が「君」との別れの予感が歌われている。

詳細こそ語られていないが、「僕」にとって「君」との恋は辛いものだったに違いない。

「あの時の言葉」「重ねた無駄な時間」

これからは「僕」が「君」との関係を維持するために、必死に取り繕ったものなのだろう。

一方的で質問ばかりの連絡にスタンプのみのそっけない返答。

中々会わない予定。

「僕」の都合を無視したようなスケジュール。

そんななかでも「僕」は「君」の好きという感情をどこかに見出そうとしたのだろう。

いつもより返信が少しだけ早く返ってくれば嬉しくなり、会えるだけでも「予定を合わせてくれた」と舞い上がっていたのかもしれない。

「気づけば気にしてる画面」や「たぶんきっときっと」という歌詞は、そんな痛々しい間柄を彷彿とさせる。

しかし「僕」だって気が付いていたのだ。二人の関係の「無理」に。そのことを表したのが歌詞に登場する「A.R→T」というフレーズだ。これは「僕」の挫折を示している。

それらのアルファベットの意味について前後の文脈を踏まえると以下の解釈が妥当だろう。

Auto Repeat(A.R) = 連射・連打

Tap(T) = 1回タップ

連絡がくるはずのスマホを何度もタップした。しかし、音沙汰はなかった。次第にタップの数も減少していく。前述のアルファベットはそんな心の移り変わりの現代的な表現なのだろう。

こんなツギハギだらけの関係を「僕」は終わらせようとしている。

糸を切ってしまえば、すべてがバラバラになってしまう。本曲は、そんな別れの決意で締めくくられる。

第二章:増えていく「?」──語り手の揺らぎと葛藤

たしかに、本曲の文脈を踏まえれば「糸をちぎる」というのは、紡いでいたものをバラバラにするという意味で、これまでの関係を無に帰すための象徴的な動作なのだろう。

しかし、私は最後の「笑えるよね?」というフレーズから、先のような解釈のみが正しいと思うことができない。なぜか。私はこの「?」に「僕」の躊躇いを感じるからだ。

本曲は、進めば進むほど「?」の数が多くなっていることに読者はお気づきだろうか。

例えば、本曲は前半にも「笑えるでしょ」という似たようなフレーズがある。

これには「?」が付いておらず、結果的に断定的な形の一文となっているのだが、先程みてきた後半に登場する類似のフレーズ「笑えるよね?」には「?」がついている。

ここに私たちは、「僕」の心情の変化を見なくてはならない。

そして、もう一つ、重要なことがある。

「僕」はまだ「君」のことが好きだという点だ。

「ずっとずっと好きかもな」という歌詞は、そんな心情の素直な表現となっている。

だからこそ、私は本曲が「別れの決意」で締めくくられているわけではないと思う。「僕」は葛藤している。

終わらせなければならないと思っている一方で、うまく切り捨てることができない「好き」とという感情を抱えているのだ。

この葛藤こそ、本曲に別のエンディングをもたらす。

それは、つまり、ツギハギだらけの関係を一つの「思い出」にするという作法だ。

繰り返すようだが「糸をちぎる」というのは確かに、これまで紡いできたものをバラバラにすることもできるのだろう。しかし一方で、作品を綺麗に終わらせる、完成させる、という「玉止め」の所作においでも「糸をちぎる」という行為は発生する。

これまで無理やり引きちぎろうとしていた「僕」は、その葛藤の末、同じ「ちぎる」でも思い出として完結させる、という方法を選んだのではないだろうか。

この解釈は、たしかにやや強引であることは否めない。しかし、歌詞の中には「捨てる」ことへの戸惑いが見受けられる。この心情を表すように「捨てちゃえば」という言葉は、後半において「捨てちゃうよ?」という形で「?」を付けている。「僕」は「捨てる」ことも躊躇しているのだ。

こんな戸惑いと躊躇に塗れた「僕」が、果たして綺麗に「君」との関係をバラバラにできるだろうか。

もちろん「バラバラにした」という解釈も、これまで述べてきた「思い出として完結させた」という解釈も、どちらが正しいというにはいずれも決定打に欠ける。

しかし、あえていうならば、この結末の解釈は視聴者に委ねられているのではないか、と私は思う。

本曲の「?」は一見、自問自答しているように読めるが、実は視聴者にこそ投げかけられている疑問なのではないだろうか。

結論:悲恋の作法としての『ツギハギスタッカート』

「そんなこともあったね」「若かったな」と思える失恋は、良いものだと私は思う。

冒頭に述べたカップルは、その後すぐに別れたものの今では二人とも結婚しており、子どもにも恵まれている。

もちろん、彼らが揃って私と会うことはないけれど、それぞれに当時の話を聞いてみると、少し困ったような笑みを浮かべながら自分の至らなかった点を話してくれる。なかったことにはせずに、だ。

たぶん、後悔しない別れなどないのだ。

だから言い換えれば、正しい「悲恋」というのは、正しく後悔ができ、次につなげることができるような失恋なのだとも思う。

『ツギハギスタッカート』には「次」は描かれていない。

しかし、そんな正しい「悲恋」のヒントは与えてくれているのではないだろうか、と私は思う。

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