序章:ゼロ年代の「幸福」と現代の“不幸の普遍性”
伝説的なケータイ小説『Deep Love』に次のような文章がある。
「幸せって何? ならなきゃいけないの?」
挑発的とも破滅的とも読めるこの一文は、ゼロ年代の「幸福」の覚束なさを象徴しているように思う。「よい学校、よい企業」のスゴロク的人生観、幸福観は、しかしバブル崩壊と共にゆるやかに説得力を失っていった。冒頭の『Deep Love』の言葉は、そのなかの戸惑いを端的に表している。
以降、「幸福」は多様になった。これは多くの人が認めるところではないだろうか。
しかし一方で「不幸」の形は、画一的な気がしてならない。MIMI『愛されたいって願ってる』という楽曲は、そんな「不幸」の普遍性を歌っているように私には思える。本論では、歌詞から、本曲が歌っている「不幸」の普遍性について考えていきたいと思う。
第一章:今日・明日・過去──時制が語る不幸の構造
まず時制について注目していきたい。
本曲には「今日」「明日」「過去」「日々の果て」という言葉が登場するが、この時間を表すワードが、どのように結びついているのか、何によって紐づいているのか、という点に注視してみよう。例えば「今日」と「明日」については、次のように連なっている。
「今日も寂しさをひとつ握って」
「涙声も明日搔き消される」
一般に「不幸」というのは、特定の状態が継続することのように思える。「暴力」に晒され続ける、貧困状態が続く、などだ。しかし『愛されたいって願ってる』の先の歌詞は、そのような推測を拒否する。重要なのは「掻き消される」という部分だ。「寂しさをひとつ握って」という歌詞は、たしかに「特定の状態が継続する」という推測と合致するだろう。しかし、そのような状態を「明日」は「掻き消す」。換言すれば、無かったことにするのだ。
ここに一つの「不幸」がある。「今日」と「明日」の連なりのなかで明らかになるのは、抱えた悲しみ、憤り、不安が、無かったことにされることの「不幸」である。
さらに続けよう。
本曲における「過去」については「弱さも許せなくて」と歌われている。
「明日」は「無かったこと」にする一方で、過去は「無かったことにできない」という対称性がここから浮かび上がる。
このような構図を、どのようにみるべきだろうか。
例えば「ユートピア」や「レトロピア」という概念がある。前者は「××をすれば報われ、その結果として、よりよいところへ導かれる」といったように「現在」の不幸を燃料に未来へ希望をもつ考え方だといえよう。そして「レトロピア」とは、例えば「昔はよかった」という風に、過去の理想的状態のことを指す。
そのうえで、前述の歌詞分析を振り返ってみると、まず未来(明日)への希望は潰えていることがわかるだろう。ユートピアの否定である。そして過去についても、およそ理想的状態ではなかったことがわかる。レトロピアへの逃避の道も塞がれた。
未来に希望をもてず、さりとて逃避できるような過去もない。「今日」については、もはや言うに及ばずだろう。歌詞の中には「今日の居場所もなくて」とあるのだから。
「過去」「今日」「明日(未来)」にも逃避できない。これは「状態の継続性」で測れない、不幸の源泉がある。
第二章:肯定は救いになりうるのか──「君」の役割
そのようななかで、私たちはどのような状態に「幸福」をみるのだろう。本曲には、そんな「幸福」の必要条件が描かれている。
この曲にはたくさんの「肯定」があることを一度でも視聴した人であれば気づくだろう。「泣いてもいい」「ありのままでいい」という言葉が、それに該当する。
では、このような「肯定」が、「幸福」の必要条件なのだろうか。
そうではない、と私は思う。
なぜなら、この曲には「肯定」と同じぐらい「君」という言葉が登場するからだ。
結論をいえば「幸福」の必要条件というのは、「君」へ呼びかける者の存在ではないだろうか、と私は思うのだ。そして、このような存在の不在は、間違いなく「不幸」の始点になる。
思い返してみてほしい。
本論でスケッチしてきた「不幸」の一つには「無かったことにされる」というのがあったはずだ。そうであれば、仮に先の「肯定」が自己肯定のような、個人で完結するものであれば、その「肯定」の継続性には保証がない。自己肯定の継続が誰にでもできるのであれば、そもそもこのような曲は誰の心にも響かない。自己肯定にも限度がある。そうであるからこそ、本曲は生まれた。
そして、この覚束ない「肯定」を保証するために、「君」へ呼びかける他者の存在が必要になってくる。『愛されたいって願ってる』はそういうことを歌っている。
しかし、そうであれば次の歌詞はどのように解釈すればいいのだろうか。
「ただ愛されたいって願っている/それだけで救われるんだよ」
肝心なのは「それだけで救われるんだよ」の部分、ここに欠如している「誰が」という点である。文脈を踏まえれば、ここは「それだけで「君は」救われるんだよ」ということになるだろうか。
私はここに異論を挟みたい。この隠れた「誰が」の部分は「私は」や「僕は」が当てはまる気がしてならないのだ。
本論の主題からは少しそれるが、このことを結論で述べてみたい。
結論:私たちが応答することで、この曲は存在し続ける
考えてみれば単純なことだ。
先程「呼びかける「他者」」の重要性について述べてきた。そうであるならば、この楽曲自体にとって、視聴者こそが「「呼びかける「他者」」なのではないだろうか。タイトルの『愛されたいって願ってる』というのは一つの呼びかけである。そして、誰であろう、これは私たちからの呼びかけだ。本曲を聴くために、私たちは「愛されたいって願ってる」と検索窓に打ち込むのだから。
そう呼びかけるだけで、本曲は「なかったこと」にはならず、存在し、肯定される。
不幸であることは、誰からも呼びかけられないことだ。本曲は、そのことを身をもって証明しているのだ。


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