【歌詞考察】DECO*27 『愛迷エレジー』限界を超えて奮い立つ君へ送る歌

DECO*27

序章:インスタントな「肯定」から遠く離れて

この曲を初めて聴いたとき、多くの人は単純な励ましの歌だと感じるかもしれない。しかし、歌詞を丁寧に読み解くと、そこには表面を超えた複雑な物語が存在する。

そのために、この考察では、歌詞に登場する「君」と「私」という二人の関係性に注目したい。

まず本論の「読み」を紹介しよう。本曲に登場する二人はかつて同じ目標に向かって共に歩んでいたが、ある時点で「私」はそこから離れ、「君」は限界を超えるような努力を続けている。その姿を見守りながら、「私」は自分にも責任があると感じている、そうした構図が浮かび上がるのだ。

この曲は、単に「そのままでいい」と肯定する時代の風潮とは一線を画し、一度自分の弱さや限界を認めた上で、それでも奮い立つ強さを示している。こうした視点が、現代において新鮮な意味を持つことを、これからの考察で明らかにしていこう。

第1章:「私」と「君」の去りし情熱と離別

この曲における「君」と「私」の関係性を深く考える根拠は、歌詞全体に漂う二人の間の親密な空気感にある。たとえば、歌詞中で「私」が「君」の状況に対してただの傍観者ではなく、「どうにも笑えない こうにも笑えないよ」というように、まるで自分ごとのように感じ取っている様子が随所に見られる。

しかし状況としては、「君」が置かれているのは「なにかに溺れている」=「苦しんでいる」ものであり、それに対して「私」は怖気づいてしまっているというものだ。

このことから考えると、多くの視聴者は「君」が何か恐ろしい目に遭っており、それを「私」が目の当たりにしているという状況を思い浮かべるだろう。具体的には「いじめ」のような状況である。

だが本論ではそのように考えない。注目すべきは、この「私」と「君」の関係について例えば「泡のように浮かぶ 二人の淡い笑顔」と言っているように、非常に閉鎖的なものであることを歌詞が仄めかしているからだ。換言すれば、苦しい状況というのは、あくまでも「私」か「君」のどちらか、もしくは両方が原因となって引き起こしたのではないか、と考えられる。ここに「いじめ」のような、不特定多数の悪意による状況を想定するのは、曲の全体のトーンに対して似つかわしくない。

だからこそ、ここでは二人が「同志」だった過去を想定する。つまり、二人は単に偶然出会った存在ではなく、かつて同じ方向を見て努力した仲間だからこそ、「私」は「君」の現在の苦境を自分の一部のように受け止めていると考えられるのだ。このように考えれば、この「私」と「君」の閉鎖性に対しても自然な解釈が成り立つように思う。

だが、この「同志」だった二人は、何かが契機となって道を違えてしまった、というのが本曲の構図である。

さらに一歩論を進めるとするならば、この曲に浮かぶ「苦しみ」は、努力の果てにあるものだと思うのだ。どういうことか。それを次節でみていこう。

第2章:敬意と畏怖を超えて。

この曲の中で繰り返し現れる「溺れる」という表現は、単なる比喩以上の意味を持っている。この部分を考えるために重要になってくるのは「エラ呼吸などできない」と「私」が語る場面だ。これは「君」に対して「人間とは思えない」と「私」が感じている部分でもある。どういうことか。まず「私」と別れた「君」が、それでもなにかしらに対して「努力」を重ねている場面が想像できることは前節で述べた。

問題なのは、その「努力」の質と量である。そんな邁進する「君」の姿を目の当たりにした「私」は、同じ人間とは思えないという感慨を抱いたのだ。だからこそ「私」は「エラ呼吸などできない」と語る。しかし同時に、「君」がその情熱のせいで苦しんでいることも「私」は知っているし、そうなってしまったことの責任も感じている。

こうした歌詞の細部から読み取れるニュアンスが、この曲における二人の関係性をより立体的にし、ただの励まし合いではない、深い物語を生み出している。その結果、「私」は「君」の奮闘をただ眺めるだけでなく、そこに深い共感と、そして自分が果たせなかった部分への思いを抱いているのだ。

ただ、注意してほしい。この曲は、そんな諦念と重責だけを歌ったものではないことに。本曲を最後まで耳にした人であればわかるだろう。自分が持ち合わせていない圧倒的な努力と情熱をもって、なにかに打ち込んでいる人間に対して、敵わないと知りつつも、糧にすらならないと自覚しつつも、自らを奮い立たせて挑む。本曲はそんな歌である。

結論:「奮い立つ」ということ

この曲の考察を通じて明らかになるのは、単なる「そのままでいい」という現代的な肯定とは異なり、一度自分の弱さや限界を見つめ、それでもなお奮い立つ強さを示している点だ。

現代では「無理をしなくていい」「そのままの自分を受け入れる」といったメッセージが多くなりがちだが、この曲はあえて「一度立ち止まり、弱さを認め、それでももう一度立ち上がる」ことの価値を歌っている。それは「君」のように限界を超えて努力する姿を描きながら、「私」がそれを見守りつつ自分の中の葛藤を受け入れるという、二重の視点を持っているからこそ生まれるメッセージである。

このように、ただありのままを肯定するだけではなく、一度自分を否定したり、苦しみを経てそれでも進もうとする姿勢が、この曲の時代性を超えた魅力となっている。それは現代の聴き手にとって新鮮な響きを持ち、単なる慰めや肯定を超えた深い共感を呼び起こすだろう。

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