序章:「同調圧力」では説明しきれない息苦しさ
これほど救いのない社会風刺はないだろう。
ピノキオピー『ノンブレス・オブリージュ』という曲は、本来、受け手の溜飲を下げるための「風刺」が、現代では逆に逃げ場のなさを表現してしまっている。
そんな本曲は、解説や考察の必要がないほど、聞き手には、その意味が、その矛先が、何を表しているのかわかる歌詞になっているはずだ。
だが、管見の限りでは、本曲の歌詞の軸になる息苦しさを、単なる「同調圧力」として捉えている考察も見受けられる。
しかし、そうではない。本曲に漂う息苦しさは、そのような単純なものではない。本論では、そのことを丁寧に掘り下げていきたい。そして、このことによって、本曲のいう「I love you」が本当に意味しているところがわかるはずだ。
一章:対になるフレーズが示す“過剰な自由”の構造
多くの考察記事が指摘しているとおり、『ノンブレス・オブリージュ』というタイトルは、「息を止めることを強制する」という風に読むことができる。「ノンブレス」は、息を止める、「オブリージュ」は「強制する」の英訳だ。
さらにいえば、歌詞のなかにある「さんはい」という掛け声から連想して「この曲は多数派による圧制」を全体を通して表現していると考えている記事もあった。
しかし、あえて言うならば、それはこの曲で表現している息苦しさの一断片でしかない。
いくつか特徴的な部分をあげよう。
「幸せ自慢はダメ」「不幸嘆いてもダメ」
「生きたいが死ねと言われ/死にたいが生きろと言われ」
一目でわかるように、この曲は、一つのフレーズの直後、それとは正反対の言葉を置いていることが多々ある。このような点から、この曲が単なる「同調圧力」をモチーフにしているという意見には首をかしげざるを得ない。このような対になるフレーズの多用は「同調」とはいえないだろう。さらにいえば「それぞれの都合と自由」や「分断生んじゃった」という言葉のように、この曲では「同調圧力」をもたらすような大衆ではなく、それぞれがミクロ化したような個人の様子を描いている。
たしかに「数の暴力」など「多数派」を表すような言葉もあるが、これは「同調」ではなく、現代社会の別の特徴の表象ではないだろうか。
そう。この曲で描いているのはインターネットをとおしてみた「現代社会」の姿だ。例えば「想像力を奪う液晶」という言葉は、私たちが日ごろ触れている電子端末のことだというのは、ここまで読んできた読者に対して言わずもがなだろう。だからこそ、この曲の最後には「防空壕」という言葉が登場する。どういうことか。
これも、いうなればタイトルのような言葉遊びの類である。様々な呼び方があるのは承知だが、私たちが普段利用するインターネットのサービスを「クラウドサービス」と呼ぶことがある。文字通り「雲」だ。本曲が、インターネットが形成した現代社会のことを歌っているのであれば、「防空壕」によって避けているのは「クラウド」、つまり雲というわけだ。この曲は徹頭徹尾、インターネットが社会のインフラになり、万人の娯楽になった現代社会の様子を描いているのだ。
第二章:親密な他者と「I love you」──ただ一つの出口として
そのように考えれば、ひとつ謎が残る。各人が自由に振る舞える「インターネット」によって、どうして息が詰まるような生が立ち上がってしまうのか。
答えは簡単。インターネットは自分にとって都合が良すぎるものである一方で、誰もが誰かの敵になる空間だからだ。これが息が詰まるような生の震源地である。
前述したような対になるフレーズは、そのような「自分にとって都合が良すぎる」インターネットという空間を表現している。その一方で、不愉快な意見を遮断するという閉鎖的な情報環境でもある。言うなれば、誰にも開かれているようで、どこでもここでも簡単に「内輪ノリ」が出来上がってしまう。それによって、全体は大衆(マス)となることなく、ただいたずらに分断が生まれる。
このような錯綜した空間。そのものズバリを表したフレーズが歌詞のなかにある。「あちらが立てば/こちらが立たず」という部分だ。そのような環境で、角を立てずに過ごすためには、強制されるのが「ノンブレス」。自由すぎる場所で平穏無事に過ごすためには、何も言わず、何も聞かず、「地雷原で立ち止ま」っているのが、最も賢い立ち振る舞いなのだ。
さて、ここまでであれば、本曲は冒頭で述べたような現代の「逃げ場のなさ」を表した作品ということに終始してしまうだろう。
しかし、それでもまだ希望はある。息苦しさから脱するための、たったひとつの冴えたやり方が。
それが親密な「他者」の存在である。インターネットではない、現実社会の、私たちの隣にいるはずの親密な「他者」。少なくとも本曲では、そんな存在に希望を抱いている。本曲の殺伐とした世界観からは異質に思える「I love you」というフレーズ。なぜ、愛を伝える必要があるのか。言うなれば、そのような親密な他者は、自分とは様々な面で異なりながらも、それでも楽しく過ごせるからだろう。
インターネット空間というのは、その性質上、その陣営にとって異質なものを可視化し、排除しやすい作りとなっている。しかし、現実の他者はそうではない。性格が正反対であっても、意見が異なっても、衝突したりすることがあっても、それでも大切なのだ。そして同然のことながら、「私」という存在に沈黙を強制することはない。
私たちが「液晶越しに息の根を止めて安心する」といっても、現実の他者はそうはいかない。そんなリアリティに、インターネット空間に息苦しさを覚える私たちは、ひとつの希望をみるのだ。
本曲は、そんな歌である。
結論:──過剰さの時代に素朴さを取り戻すために
別のところでも記したが、ピノキオピーによる楽曲の特徴は、「過剰さ」の表現にある。『嘘ミーム』や『超主人公』などが、その「過剰さ」の一つの例だろう。しかし、かつて有名な思想家が「量は質に転化する」と語ったように、その「過剰さ」は、いや、過剰だからこそ、私たちに別の苦しさをもたらす。自由の過剰は孤独を生み、正義の過剰が虐殺を生み(『超主人公』)、煌びやかな嘘の過剰が虚しさを生む(『噓ミーム』)ように。
私たちは、本当は素朴なところに戻らなければならないのかもしれない。幾千万の嘘よりも、素朴な実直さを。過剰な正義よりも皆と上手くやっていく方法を。ピノキオピーというクリエイターの作品は、いつもそんなことを思わせてくれる。

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