序章:わかりやすさの時代に現れた怪作
超平面への怒りである。
あばらやの『花弁、それにまつわる音声』という曲を聴いて、私はそのようなことを思った。本曲は意味深長な歌詞で飾り付けられている。にもかかわらず『The VOCALOID Collection 2025 冬 第1位』という称号を得ているのは注目すべきことだろう。
現代では「わかりやすさ」が求められているはずだ。吉本隆明の晦渋な文章に多くの人が挑むわけでもなければ、浅田彰のような現代思想の本がブームになるわけでもない。「わかりやすさ」や「正解」が、現代カルチャーを取り巻く景色だ。
そのような風潮に対して、本曲は背を向けている。しかし、実績がある。魅力がある。
だから私たちは解きほぐしていかなければならない。それが本論の使命であり、そのためのキーワードが「超平面への怒り」だ。どういうことか。歌詞に注目しつつ、さっそくみていこう。
一章:最低な理想――選ばされている自由
まず、この歌を真っ二つにしてみよう。いきなりで恐縮だけれど、ここでは歌詞の最後に注目してほしい。「僕ら」と自称する語り手は、次のように叫んでいる。
「その音声に罹ってから人生は狂ってしまった」
なるほど。どうやら本曲は「狂気」と「正常」に関するものらしい。たったワンフレーズで穿ちすぎだろうか。しかしどうだろうか。この曲には例えば「健やかな日々」や「最適な思考」など、「正常」と直截な表現はせずとも、それを仄めかすフレーズが至るところにある。繰り返しになるが、ここでは一旦本曲の通奏低音が「狂気」と「正常」に関するものだということは飲み込めるのではないだろうか。
では、これらの観念は、どこから立ち上ってくるものなのだろう。
まずは「正常」から。
次のフレーズに注目したい。
「最低な理想の中 最適な思考の中」
そして「強制されないで歪んだ僕達の歌」という歌詞。
一見すると、これもまた意味深長な内容であるが、少し見方を変えてみたい。例えば「強制されないで歪んだ」という部分。一般に「歪んだ」のであれば、それは強制された結果として出力されるべきだろう。しかし、このような考え方は強制された側が、その力に気づくことが前提となっている。つまりここで歌われているのは、環境によって、そのなかにいる主体は自身の選択について「選ばされている」ではなく「選んでいる」と受け取ってしまうような状況のことだ。
このような環境は、実は現代社会で多く存在する。例えば某ファストフード店は椅子を固くすること(座り心地を悪くすること)で、退店のスピードを速め、回転率を上げる。客にとっては自身の決断で退店しているはずなのだが、その実は、店側から、そのように誘導されているのである。
私は、このような状況が、ここでいう「最低な理想」を指しているのだと思う。語り手からみた「強制されないで歪」ませられる環境、それを志向するというのは「最低な理想」なのだ。そして、ここであきらかにした価値基準こそ「超平面への怒り」を明らかにするための鍵となっている。
第二章:暮らしを壊せ――奥行きの消えた世界へ
お気づきだろうか。この曲の語り手は、自身が置かれている環境を俯瞰してみているのだ。そのような語り手のまなざしは、至るところに存在する「平面」へ注がれる。どういうことか。
例えば「体験版」という言葉。「ロード中」というフレーズ。「.wav」という表現。
これらは、インターネット空間となじみ深い単語となっている。私は、この表現の羅列の震源にあるのものを「超平面」と呼んでいる。
インターネット空間は、どれほど立体的で感動的なものが眼前に広がっていたとしても、その実はプログラミング言語という記号の集合でしかない。感動を生んだマテリアルなものが目の前にあるわけではない。
わかりやすい例がAIだろう。どれほど、こちらが言っていることを理解している風な返答があったとしても、その裏は膨大な演算の集積だ。意味を理解しているわけではない。我々が話している言葉、思考と志向は計算可能な記号に変換される。現実世界であっても状況はほとんど変わらない。心地よい時間は計算され、損益のために理想的な回転率が演算され、その結果として硬質な座りにくい椅子が設置される。
我々の五感を、心を、すべて演算可能なものへと、すべてがフラットな「超平面」へと換言される。
語り手の怒りは、このような空間、世界の在り様へと向けられているのだ。
その最も端的な表現が「暮らしを壊せ」だ。語り手は、生活を、空間を、嫌悪している。そしてその分、まだ世界に奥行きがあったころを懐かしむ。「少年に戻りたくて陸橋から街をみていた」という部分は、たとえ俯瞰したとしても、眼下には街々の凹凸(=奥行き)があり、視線の先には、世界の果てがあると信じることができた頃のことを表しているのだと、私は思う。
結論:狂気としての歌声、救済としてのボーカロイド
だからこそ、というべきだろうか。
語り手は歌声を愛している。ここでいう歌声というのはボーカロイドによるもののことを指している。ボカロ文化の黎明期において、その歌声が「ここではない、どこか」、超越的な世界の表象だと議論された時期があった(『セカイ系入門』)。語り手は、その時代の頃を懐かしむ。ここではないどこかへと至ること、語る言葉を「意味」として受け取ってくれる存在を、信じている。それが傍目からみて狂気的にみえたとしても。「その音声に罹ってから人生は狂ってしまった」としてもだ。
本曲の基層はたしかに「怒り」だろう。しかし一方で、ボカロ文化を愛する人、その原初にあった理想を覚えている人への静かな合図となっている。


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