序章:二〇二六年一月にこの論を書くということ
最初にお断りしなければならないのは、本論の執筆日が二〇二六年一月だということだ。
そのうえで、本論ではひらぎの『マリオネットダンサー』を取り扱いたいと思う。これが意味するところは何か。
端的にそれは、二〇二五年と二〇二六年の断絶、あるいは飛躍について語るということになる。なので読者諸氏には、可能であれば雨良『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』について扱った方も読んでみたいと思う。順番はどちらでも構わない。本論を先に読んでもよいし、『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』を読んでもらってもいい。
さて、前置きは充分だろう。前述した「飛躍」について語るために『マリオネットダンサー』論を始めたいと思う。
第一章:二〇年代前半ボカロの精神風景
『ボカコレ二〇二五冬 ルーキーランキング 受賞一位』という輝かしい実績を有する本曲は、二〇年代前半のボカロムーブメントの特徴を色濃く反映している。
本曲で繰り返し述べられている「マリオネット」「操り人形」という言葉、あるいは、その感覚は、前述した特徴を表している。これ以外にも例えば「気づけば あれ?」や「あれ、これって全部意味無いの?」という歌詞も、その特徴の反映の結果としてみていいだろう。
ここで読者に思い出してほしいのは二〇年代のヒットチャートの特色だ。柊マグネタイト『テトリス』や吉田夜世『オーバーライド』、ピノキオピー『超主人公』などはいずれも、二〇年代ボカロシーンを彩った名曲であることは多くの人が認めるところだと思う。だが、これらに共通する感覚はいずれも「暴走の終点と後悔」とでもいえるものではないだろうか。『テトリス』には「どうしてこんな目に」、『オーバーライド』は「豪快さにかまけた人生はきっと燃やされてしまう」、『超主人公』は「気づけば あんた ラスボスじゃないかい?」といった具合だ。いずれも「気づいたら思わぬ方向に進んでしまった」ということへの後悔が滲んでいる歌詞が散見される。
そのような点において『マリオネットダンサー』も同様だ。さらにいえば、同曲はその一歩先にある「操りの感覚」まで掴んでいる点は秀逸というべきだろう。
つまり、必死にあがいていたはずの生は、どうやらどこかの誰かにとって都合のよいものになっていた、という感覚だ。
なぜこのような感覚が浮上してきたのか。これは筆者の想像だが、ボーカロイドという文化が、そもそもインターネット空間を出自としていることが遠因にあると考える。
本来であれば、ここで戦後日本の流行歌についての分析を挟むところではあるが、ここでは端的に論拠だけ述べておこう。日本流行歌の変遷は、視聴者の存在を無視できない。例えば、シンガーソングライターの出現は、視聴の個人化によって「この歌詞は<私>のことを歌っているのだ」という感覚に後押しされた(宮台真司『サブカルチャー神話』参照)。
このような反映の背景を鑑みれば、ボカロ曲の視聴者にとって親和性がある視聴空間はインターネット空間だということは間違いない。
そして、その空間は二〇二三年に大いに変容することになった。それがインプゾンビの出現だ。2023年8月に導入された収益化プログラムに影響を受けて増加したこの現象は、自身の興味関心が、誰かにとっての利益だということを多くの人に知らしめることになった(アテンションエコノミーという言葉があるように、このような興味関心の誘導、それによる収益は以前から存在した。また以降に述べる現象も「アーキテクチャ」や「生-権力」と言われていたように以前より存在したことは指摘しておこう)。
これらのことから、自身の興味や関心、やや大げさにいえば人生そのものが、誰かの操作を受けているという実感を生んだのだと筆者は思う。
そのような点を『マリオネットダンサー』という曲は鋭利に捉えている。
だが、このような問題意識は、実はかなり古い問題なのだ。この点を次節で紹介し、冒頭で述べた「飛躍」を語りたいと思う。
第二章:視点の転換――「飛躍」はどこで起きたのか
この「操り」の感覚に敏感に反応したサブカルチャーは、実はミステリー小説界隈であった。詳細は割愛するが、評論家であり小説家の笠井潔が『大量死と探偵小説』で語ったように、先の感覚の痕跡は、少なくとも綾辻行人の館シリーズまで遡ることができる。一九八七年のことだ。つまり、四〇年程度は経過している問題意識なのだ。そのような問題だけに多くの論者が、様々な処方箋を提案してきた。それは例えば「革命」であったり「愛」や「友情」、あるいは「起業」であったりといった具合だ。
いささか辛辣になるが、そういった文脈において『マリオネットダンサー』に残念ながら新規性はない。だが、筆者はそれでいいのだとも思っている。この「操られている生をどうするか」という問題は、一人称視点ではうまい解決が見いだせないことを逆説的に示しているからだ。
だからこそ、というべきだろう。
雨良『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』の視点は画期的であった。詳細は、当該曲の記事に譲るが、「操られている生」からの離脱は、まず状況を俯瞰してみるという冷静さが必要だったのだろう。それを『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』は表している。この問題に対する視点の変化を本論では「飛躍」と述べたのだ。
そう、つまり、二〇二五年までのボカロが描いてきたのは、「操られているという実感」に苦しむ主体であった。だが二〇二六年の作品は、その苦しみを一人称の感情として処理することをやめ、構造そのものを眺め始めている。ここにおいて、主体はもはや「苦しむ存在」ではなく、「状況を読解する視点」へと変質した。この転換こそが、筆者のいう「飛躍」である。
結論:終焉としての『マリオネットダンサー』
さて、ここまでのことで一つ謝罪しなければならない。本論では『マリオネットダンサー』を結果的に下げているような形になってしまったことだ。もちろん筆者としては『マリオネットダンサー』自体は高く評価しているつもりである。先の「新規性」という話も、あくまで別の文脈と接続した場合という限定的な話だということは、わかってほしい。
そして『マリオネットダンサー』という曲が記念碑的な作品だということは、強調しておこう。それは次なる飛躍のために、必要な作品であり、同時に「これまで」の終焉を告げる、時代に鋭敏な感性がなせるものだからだ。

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