【歌詞考察】ピノキオピー『不死身ごっこ』「効かない心」を演じ続ける時代のグロテスク

ピノキオピー

「なるほど、そうきたか」——ピノキオピーという作家の期待値

「なるほど、そうきたか!」というのが真っ先に思ったことだった。

これはピノキオピーの『不死身ごっこ』を聞いたときの感想である。

さらにいえば、この曲は製作者のピノキオピーのことを知れば知るほど「すごい」と思えるものになっていると感じた。これを、このクリエイターの入門編と捉えるか、一つの到達地点と捉えるかは、論者によって意見がわかれるところだろう。とはいえ、そのような相対する見方ができるような作品となっていることがすでに、傑作なのだといえるのではないだろうか。

本論では、前述の「そうきたか」という意味の背景を交えながら、この曲に残された謎を紐解いていく。それをもって読者諸氏に『不死身ごっこ』の評価を改めて委ねたい。

羨望される「不死身」が撃たれるとき

このサイトでも数曲ほどピノキオピー氏の楽曲を考察させてもらった。そのようななかで分かったのが、氏の歌詞の大きな特徴に「過剰」というものがあるということだ。『神っぽいな』はもちろんのこと『嘘ミーム』や『超主人公』など、このサイトで取り上げた曲にも「過剰」はある。もっともわかりやすい例としては『超主人公』だと思う。この曲は、昨今の「成長」や「行動」に対する過剰な期待の風刺だ。詳細は当該記事に譲ろう。

さて、このように「過剰」というのがピノキオピー氏の作品における重要なモチーフであることを前提とすると、視聴者にとっては不都合なことが起きる。それは期待値の低下だ。

身近な例でいえば、使用されているトリックが叙述トリックだと知って読むミステリー小説より、それと知らずに読んだ方が結末の驚きは大きい。ことほどさように、変化のないモチーフや手法というのは視聴者にとって新鮮度の度合いを低下させる。かくいう筆者も同じだ。正直にいえば「これ以上、何を過剰にするのか」というのが視聴前の本音だ。

ところが『不死身ごっこ』に、そんな心配は不要であった。この曲で表現されている過剰は「心」だった。「その手があったか」と思った。

一度でも聞いた視聴者であれば、わかってくれると思う。この曲は心の痛みの「過剰」な抑制をテーマとしている。歌詞をみてみよう。

「大丈夫 心臓潰されたって 心痛まないし」

「現実に噛まれちゃって はらわたをブチ撒けたって 「全然ダメージ通ってない」」

このような「効いてない」や「(痛みを)感じてない」といった主張が曲全体を彩っている。

とはいえ、このような特徴には、現代性がないよう思う人もいるだろう。現代は、先のような「ダメージ」というものに対して繊細な扱いしている傾向があるからだ(「HSPブーム」などがその顕著な例だろう)。

だが、このような見方もまた一方的だと言わざるをえない。例えば麻生競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』という小説がある。某SNSに投稿されていた小説に対する反響が実り単行本化した作品だ。

そこには「病んでしまった人」が、なんの衒いもなく、さながら風景のように登場する。先程の「成長」や「行動」の礼賛に煽られて病んでしまい、自己を卑下する。なるほど、そのような人物からみれば『不死身ごっこ』で描かれているような「効かなさ」は羨ましいものがあるはずだ。

しかし『不死身ごっこ』は、その羨望を撃つ。

ある種、現代の理想である「効かなさ」を過剰に表すことで、そのグロテスクさを暴露している。『不死身ごっこ』の凄さは、モチーフを維持しつつ、依然として現代性を有するところにあると私は思う。

「生きたくて ああ」——笑えなかった理由

この曲には不思議なところがある。

「強がって わろてます」と続く部分だ。この次は「泣きながら わろてます」とある。

ここまでだと、本曲のモチーフからして何ら不思議なところはない。「傷つかない」を嗤って誤魔化している。それが現代の「生きる」の最適解だとわかっているからだ。

しかし。

しかし、である。

それらのあとに歌詞はこう続く。

「生きたくて ああ」

流れをくむのであれば「生きたくて わろてます」と続くべきところだ。しかし、続かなかった。これが謎である。

だが、実はわかっているのだ。「生きること」手段としての「笑っている」ことを選びきれなかった理由を。

この歌の語り手も、たぶん私たちも、気づいてしまったのだ。

「効かないこと」や「感じないこと」。あるいは、心痛まずいつづけることが果たして「生きる」といえるに値するのだろうか、と。何も気にせず「笑うだけ」。これは果たして人間なのだろうか、という自問がこの部分から浮かび上がってくる。

おそらく『不死身ごっこ』の問いかけは、最初からそうだったのだ。その証左にPVに登場するミクの姿は、ブリキ人形のような様相を呈している。

繰り返そう。「効かないこと」「感じないこと」。それが憧れになってしまうような現代のグロテスクさ。ピノキオピー『不死身ごっこ』は、その「過剰」という伝家の宝刀によって、その暴露を成し遂げたのだ。

不死身ごっこを続けるブリキ人形たちへ

テーマは明瞭が明瞭である。

そういった意味では、この曲は氏の楽曲の入門編ともいえることは間違いない。しかし一方で、ここで用いられている「過剰」という手法について、氏の曲を知れば知るほど「その手法でまだ「現代」を撃つことができるのか」と驚愕する。そういった意味でファンも楽しませてくれる。

さて、本論は以上である。

冒頭で述べたように、ここで開陳した考察を踏まえ、視聴者諸氏にはあらためて視聴してもらいたい。

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