序章:歴史のほとりにて
現代を反映する曲もあれば、製作者個人の到達点を映し出すものもある。
そのような意味でいえば、この曲は、ボーカロイドの歴史を背負っている。そういう意味においても、これは名曲だといわざるをえない。
二〇一六年にリリースされたDECO*27『ゴーストルール』が、それである。
登場から十年が経過したが、本曲はいまだに多くの人に聞かれ、歌われている。
私たちはこれから、この曲に宿る「歴史」を観察していく。そのための歌詞分析を行う。
つまり次章では、この歌詞の意味を精査し、その次に掘り出した意味を「歴史」につなげていく。繰り返しになるが、本論を読み終わる頃には、この曲が名曲たる理由が暴かれることになるだろう。読者諸氏にはそれを楽しみに読み進めてほしい。
第一章:ゴーストの正体――事件としての歌詞
冒頭で示した本論のスケッチに則り、私たちはまず、本曲の歌詞分析を行う。そのためにまず大きな謎を示そう。それはつまり、この曲の語り手である「僕」は何者なのか、というものだ。
だが、実は、そのような問いの答えについて、直観的に理解している読者がいるのではないかと思っている。なぜなら、既にタイトルに示されているからだ。
『ゴーストルール』
ゴースト。幽霊である。
無論「タイトルに示されているから、それが答えだ」などという論理的飛躍をするつもりはない。では、なぜ語り手が幽霊だといえるのか。そのために注目したいのは「僕」が自身のことを語る部分だ。ここでは二か所だけ引用したい。
「腐っている僕には 腐ったものが理解らない」
「きみには僕が見えるかな」
まず前者について。この部分を「僕」の不貞腐れたような心情の吐露、思春期にありがちな自罰的な自意識とみることもできる。ただ、ここでは文字どおりの意味として受け取っておきたい。「僕」は「腐っている」。まずはこれを押さえたうえで後者にも目を配ろう。
改めて語ることでもないが、ここでわかることは唯一「僕」という存在が「きみ」からは見えない、ということだ。
これらを前提としたうえで考えられるのは「僕」は腐敗の進んだ死体であり、幽霊となっているという背景だ。私たちが、この曲の語り手を「ゴースト」だと思うのは、このような仄めかしが歌詞に込められているからである。
さて、ここからが面白い。
私たちの分析は、「僕=幽霊」などという平凡な考察サイトにあるような地点に留まることを許さない。私たちは先に往く。なぜ「僕」は幽霊になったのか、という方向へと進む。
そこで着目しなければならないのは次の歌詞だ。
「時効なんてやってこない」
「隠して仕舞ったんだ」
そして「足りないものを望んだら 僕じゃない僕に出逢ったよ」という箇所。
このような箇所から筆者は、語り手である「僕」が殺人を犯し、遺体を隠蔽したあと、自ら命を絶ったというストーリーを思い描く。そう。ゴーストは二体いるのだ。
そのように考えると、少なくとも「時効なんてやってこない」と「隠して仕舞ったんだ」という部分には筋が通る。「時効」などという概念が登場している時点で、何かしらの「事件」が発生したことは間違いない。そのうえで「隠して」という言葉を鑑みると、その「事件」の隠蔽という事態が考えられないだろうか。
さらに、「足りないものを望んだら 僕じゃない僕に出逢ったよ」というフレーズについても、このような「事件」を起こした「僕」の衝動の強度の表現だと私は思う。
とある「事件」の前後で「僕」が「僕」ではなくなるほどの衝撃のある出来事。
その「事件」を本論では「殺人」と断定した。だが残念ながら、このことについて、歌詞の中で明示されているわけではない、
ここで私たちは次章に進む。本曲を「歴史」と接続することで「殺人」の内容が明らかになるからだ。
第二章:殺されたものは何か――〈生きづらさ〉という対象
たった一つの歌が、人の命を救うことがある。「生きづらさ」を抱える人を支えることがある。ボーカロイドというサブカルチャーは、そのような苦悩に答え続けてきた歴史がある。ライターの飯田一史はボーカロイドの歴史について次のように語る。
「ボカロ文化において生きづらさにフォーカスしたエグい歌詞/物語の作品には、2000年代後半以来、10年以上にわたりずっと一定の需要がある。」(『『鬼滅の刃』『チェンソーマン』にも通じる? ボカロP「カンザキイオリ」が圧倒的に支持されるワケ』)
だが、そのようなボカロ文化もカルチャー自体の地盤沈下には耐えられなかった。
象徴的なのは、ハチ『砂の惑星』の登場だろう。二〇一七年にリリースされたこの曲は、ボカロという歴史の終焉(少なくとも「区切り」)をテーマとしたものとして、多くの賛否を呼び起こした。
注目すべきは、この時期——二〇一七年。『ゴーストルール』リリースの翌年である。
詳細な考証は割愛するが、時期的な符号を鑑みても『砂の惑星』の前年からボーカロイドの隆盛は、下火気味になっていたといえるだろう。
そして(ここは筆者の完全な想像だが)『ゴーストルール』の製作者であるDECO*27もそのような時代の雰囲気を鋭敏に感じ取っていたと思われる。事実、DECO*27は『砂の惑星』のアンサーソングされている『ブループラネット』を作成するなど、ボカロ界隈のことに無関心なクリエイターでないことは明らかだ。
そのような「終わり」の雰囲気が漂うなかで発表されたのが『ゴーストルール』だった。このことを踏まえれば、本曲の「僕」が「死体」「ゴースト」だというのも合点の行く話ではないだろうか。
そして、私はこのように思うのだ。
「僕」が殺した相手は、自身の消滅と引き換えに仕留めようとしたのは、ボカロ文化が答えてきた「生きづらさ」だったのではないだろうか、と。
だからこそ、「僕」は視聴者を突き放すようなことを言う。
「もう抱き締めなくて易々んだよ」「もう一度嘲笑ってくれるかな」という風に、だ。
本曲は、ボカロ文化からの遺書ともいえる曲だと私は思う。
「僕」から生きづらさを抱えていた「君」へ。
抱えていた苦悩は「僕」が殺した。「僕」の命と引き換えに。
「僕」は、これで役目を終え「流行」から「歴史」になるだろう。
けど、苦悩から解放された「君」はきっとすばらしい大人になる。
だから「僕」を大事に抱きしめなくていい。
「君」は充分一人でもやっていける。
でも。
もしも、「君」に余裕があれば思い出したときに「もう一度嘲笑ってくれるかな」。
そんな祈りを『ゴーストルール』は宿している。
結論:十年後の「君」へ――呼びかけとしての終章
十年後の「君」たちへ。
「僕」が再び、私たちへ呼びかけるとしたら、そんな書き出しから始まるのではないか、などということを夢想する。
さて、振り返ってみればボカロ文化は死ななかった。『とりえのないくずだって生きてていいだろが』や『君が飛び降りるのならば』という曲があるように、ボーカロイドは今でも誰かの「生きづらさ」を代弁し、生きる力となっているはずだ。
そんな現代に「僕」は、どのような言葉をかけてくれるだろうか。
あるいは、かつて子どもだった私たちは、あの時の「僕」に、あるいは今の「君」にどのようなものを伝えるだろうか。
私見ではあるが、二〇二六年現在のボカロシーンは「社会派」ともいえるような硬派な曲が人気を博している(「社会派」という区分けについては、この記事を参照してほしい)。
だが、それでもボカロカルチャーには、視聴者が抱える様々な苦悩の支えになってほしい。『ゴーストルール』を聴くとき、そんなことを願わずにはいられない。
それを強く思わせる名曲。それが『ゴーストルール』である。

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