【歌詞考察】Eve『ドラマツルギー』傍観者なんていない――冷笑の終わりと舞台に立つ私たち

Eve

序章:才能という言葉を信じたくなる瞬間

才能という言葉が嫌いである。

それは免罪符であり、言い訳であり、弱音であり、この「私」の現実を何も変えない言葉だからだ。けれど、そんな言葉を信じたくなる瞬間がある。歌うべき歌が、聞かれるべきときに登場したとき、私は「才能」という言葉を信じたくなる。

Eve『ドラマツルギー』という曲が、私にとってまさしくそんな曲だった。

今でこそ大人気アニメ『呪術廻戦』の第一期OPなどで更に人気を加熱させたEveだが、それとは別にして、やはり傑出した才能というのは、その「時代」の精神を見事に撃ち抜き、聞く人を虜にするものなのだろう。

我々が今から行おうとしているのは、そんな「才能」の分析だ。歌詞を分析していくなかで、宿る天才性を露わにしていくというのが本論の目的である。

第一章:観客席から舞台へ

まず、この曲のテーマを述べよう。端的にいえばそれは「人形のような生からの脱却」だ。これは本曲のタイトル『ドラマツルギー』の「人の行動は、時間・場所およびオーディエンスに依存している」という定義から直観的に思いついたアイディアではないことは急いで付け加えなければならない。

そのために歌詞を見ていこう。注目すべきは、本曲の語り手である「僕」からみた世界の描写である。

「転がってく様子を嗤った」

「寂しいとか愛とかわかんない」

冒頭のフレーズは、思春期に見受けられるようなシニカルなまなざしではない。いや、むしろ「僕」は、このような自身の感性に嫌気がさしているともいえる。

「この小さな劇場から出らんない」という部分は、そんな「僕」の心情の吐露だとみていいだろう。

以降、歌詞はサビに突入していくわけだが、目をむけるべきは、その助走部分だ。ここに一つの転換がある。「さあ皆必死に役を演じて」という部分。そして、それに続く「傍観者なんていないのさ」である。

本章の冒頭で、私はこの曲のテーマを「人形のような生からの脱却」とした。これを通奏低音とする場合、例えば「僕」のような眼差し――つまり、状況を「劇場」、転じて人々の活動を「演劇」とするような、俯瞰的な視点を有しているのであれば、「愚かな大多数」と「そんな愚かさを看破している自分」というような二項対立に陥ったとしても不思議ではない。

少し横道に逸れるが、前述の「不思議ではない」という部分について補足したい。つまり、この「二項対立」という眼差しが筆者の思い込みではなく、珍しくない視点だという説を補強するために、一つの小説を引用しておきたい。朝井リョウの『何者』という作品だ。就活というある種の演劇性をテーマにした本作は、なるほど、「私」と「それ以外の愚昧な大衆」的な視点を有した人物が登場する。

「就活就活って人を見てると、なんか」

(…)

「想像力がないんじゃないのかなって思う。それ以外にも生きていく道はいっぱいあるのにそれを想像することを放棄してるのかな、って」

(朝井リョウ『何者』)

だが、『ドラマツルギー』の傑出した点は、そんな演劇性に塗れた現実は、それでも現実なのだ、と看破する点にある。それが「なんていないのさ」という一言に込められている。どういうことか。

端的に言おう。そんな「観察している自分」「俯瞰している私」でさえ、その状況が生んだ一つの役割なのだ。「演技をしている人」は、決して無知蒙昧な人間ではない。そのようなシニカルな視線を受けていることなど承知だ。人間、そこまでバカではない。

「演技をして大衆に迎合している」とシニカルな人は言うのだろう。

しかし、そういう「お前」はどうなのだ。

「シニカルな視線を有している、人より賢い自分」を演じることで耳目を集めようとしている、という可能性を「お前」は完全に否定できない。そうであるならば「演技している人」と「それを俯瞰している人」の差は、一体、どこにあるのだろう。「俯瞰」もまた、観客を意識した「演技」ではないだろうか。

本曲の優れている点は、ありがちな冷笑的な視点を有しながらも、それを否定するところである。「傍観者なんていないのさ」という箇所が、まさしくそれである。

誰も人形のような生を生きているのかもしれない。けれども人形ではない。そういう風に生きている演技をしているだけなのだ。

本曲は、やもすれば「傍観者」に成りがちな、頭でっかちな私たちを喝破し、目の前の現実を生きることの逃れ難さを歌う。観客席に逃げ込みたくなる私たちを引き留める。

だからこそ、この曲は最後に問いかけるのだろう。

「その目に映るのは」と。

第二章:二〇一七年という成熟の気配

さて、実は、この曲の天才性を証明するために、さらに一つ、時代精神とも符号があることを示しておかなければならないだろう。

本曲がリリースされたのは二〇一七年。同年はハチが『砂の惑星』を発表、前年はみきとP『ロキ』、翌年はナナホシ管弦楽団『抜錨』がリリースされている。

この時期のボカロシーンは、「成熟」あるいは「幼年期の終わり」ともいえるテーマを基調とした歌が人気を博した。先に挙げた『ロキ』『抜錨』なども、そのようなテーマを抱えている。

そのような前提を踏まえると、Eve『ドラマツルギー』も、それらのテーマと同期するものと考えられないだろうか。なぜこのような変化が起きたのかは、それぞれの曲の記事に譲るが、本曲が、歌われるべきに誕生したものだということは間違いないだろう。そして、そんな時代の要請に答えた能力を「才能」と評しても大げさではない。

私が本曲を真に評価する部分は、歌詞の巧みさもさることながら、「歌うべき曲」と「聞かれるべき時代」の結節点に本曲が君臨するからである。

結論:次の才能を待ちながら

いかがだっただろうか。これまでの記述によって、この曲にやどる天才性が読者に伝わったのであれば筆者としては望外の喜びだ。

そして実は、このタイミングで本論を執筆したのには、もう一つの目的がある。二月一六日現在、まもなくボーカロイドの祭典「ボカコレ」の開催が目前に迫っている。

もちろん私も一人の視聴者として、この祭典を目一杯楽しむ所存だ。そして、そこで期待するのは、まさしく次世代の才能の登場だ。クリエイター一人一人が、どのような心で時代を感じ、どのような視点で世界を眺めるのか。そして、それをどのように作品に昇華するのか。僭越ながら、そのような祭典、あるいは進歩にほんの少しでも寄与したいと思い、私なりの「名曲」の条件を、『ドラマツルギー』という最高の例を用いて、書いてみた次第である。

とはいえ、私のやっていることは所詮後追いであり、後付けでもある。僭越という言葉では足りないかもしれない。

だから、まずはすべての参加者に万雷の拍手を。

作品という自らの分身を世に出すことへの勇気に、それを聞かせてもらえることに、最大限の敬意と感謝を、本論に込めてお伝えできればと思う。

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