【歌詞考察】ルシノ『ループザルーム』なぜこの曲は支持されたのか——“自閉”が挫折する瞬間

ルシノ

序章:歌詞考察はどこへ紡がれるのか

語ることを避けては通れない楽曲と化した。視聴者が、そうさせたのだ。

ルシノ『ループザルーム』のことである。

退廃的なMV、意味深長な歌詞、薄い不気味さが漂うメロディ。二月二〇日時点で一〇〇〇万再生を超える本曲が、どうして、そこまで人気を博したのか。本論の考察の終着点は、それである。

ただ、先んじて言えば、この曲については、これまでの考察で用いたような歌詞からの探求には限界がある。だから私たちは、MVに刻まれている歴史に、この歌詞を接続しなければならない。

本論は、まず前半に歌詞考察を始める。前述した「限界」に限りなく近づくのだ。そして後半は、そこで浮き彫りにした本曲の本質を歴史と接続する。

では、さっそくみていこう。

第一章:「いかれた夢」と失敗の記憶

まず明言しておかなければならないのは、この曲で歌われている心情がネガティブなものだということだ。だが一方で、そのネガティブな気持ちは行き場を失っていることにも注目しなければならないだろう。

どういうことか。

前者については言うに及ばないことだとは思う。「飢えを凌いだ」や「SOS」というフレーズからわかるように、語り手は、今自身が置かれている状況を良しとしていない。

しかし、である。

この「良しとしていない」という心情も、強迫的な絶望、直接的な悲劇を予期することによるものではない。端的にいえば、本曲に漂っているネガティブな心情の本質は「諦念」。それである。

例えば「抗う意味など」というフレーズ。その他にも「振り向いた先に希望が見えた/地獄の果てなどどこにあるのか」という箇所など。

語り手は、置かれている状況を絶望的なものだと感じていない。「地獄の果てなどどこにあるのか」という語りは、少なくとも、現状が、地獄の果てのようなものではない、ということを証明している。だが、それでも語り手は「出口はまだなの」というふうに「ここではない、どこか」に希望を抱き、現状を手放しで肯定しているわけではない。

仄かにみえる希望と、それに手を伸ばそうとする前に全身を包み込む諦念。「抗う意味」すら見いだせない、自閉的な空間にいるのが語り手である。

では、この空間とは、具体的にどのようなものなのか。この問いに答えるのであれば、私たちはMVそのものに目を向けなければならない。着目すべきは、MVの冒頭と最後。

冒頭ではテレビが映し出されていたが、最後ではデスクトップパソコンとなっている。映像を出力する媒体が大きく変化しているのだ。

さらにいえば「カセット」という言葉が示唆しているところをみると、この曲の舞台となっている時代は、おそらく八〇年代~〇〇年代だと思われる。それは歌詞にある「いかれた夢」というフレーズからも類推することが可能だ。

たとえば、地下鉄を狙ったテロリズムによる世界革命の夢。

たとえば、空から恐怖の大魔王が世界を終わらすという夢。

あるいは「今でも覚めない夢を見ているような」と語った、ビデオに囲まれた部屋からあふれ出した殺意。

今一度換言すれば、この曲の舞台は、平成の最初期ということになる。

では、そのような舞台装置を有している本曲が、どうして人気を博したのか。それをボーカロイドの歴史から考えてみたい。

第二章:グッバイ・グッバイ

筆者は二〇一七年から数年間のボカロシーンは、大きく二つの流れがあると考えている。

一つが、サブカルチャーに見切りをつけることで「成熟」を意識させるような曲。代表的なものとしては『ロキ』や『抜錨』などが挙げられる。

そして、もう一つが、再び、自閉的な自己を取り戻すという流れだ。代表的な作品には『グッバイ宣言』を挙げることができるだろう。

著者のみるところでは、結果的に前者が生き残り、後者のムーブメントは雲散霧消したと思われる。このきっかけについては、別のところで別途語らなければならないが、しかし、二〇二六年の現在から振り返ってみれば「成熟」路線も頓挫したといえる。

その頓挫の象徴が『オーバーライド』や『超主人公』などの曲だ。「成熟」を夢見て駆け抜けた人生は「想像よりも狂って」(『オーバーライド』)いたというわけだ。

そんな文脈を有しているボカロシーンが、今一度「自閉」へと舵を切るのは、無理からぬ話だ。誰しも上手くいかない現実を目の当たりにしたとき、往々にして過去に逃げ込む。

だが、そんな逃走の先に、本曲『ループザルーム』がある。

かつては「引きこもり絶対ジャスティス」(『グッバイ宣言』)とまで歌われた「自閉」の方向性は、しかし、本曲において再び余命宣告を受けることになる。

自閉の先にあるのは、生ぬるい地獄であり、希望に対する諦念であり、届かないSOSなのだ。そのことを『ループザルーム』は明らかにしている。

筆者は本曲について次のように思う。

この曲の人気を静かに支えているのは、「自閉」が挫折するという予感に対する視聴者たちの暗黙の肯定なのだ、と。

しかし、この肯定も一歩間違えれば、皮肉なことに一つの「ループ」に組み込まれてしまう。そう。「自閉」はダメである。だからこそ私たちは「成熟」しなければならない、という道筋は、かつてのボカロシーンがたどってきたものだからである。

だからこそ、本曲は「繋ぐ曲」なのだと筆者は思わずにはいられない。

ボカロシーンが、次に何を描くべきなのか。そのテーマを見抜くため、同じ轍を踏まないための、いうなれば「平成」からの叫びなのである。

結論:「警鐘」という傑作

後半で示したボカロシーンの変遷については、この記事に書き記した。興味がある読者はぜひ目を通してほしい。

さて、いずれにせよ、これでこれからのボカロシーンは、新しい想像力をこれまで以上に必要としていることがわかったと思う。

現在、『超かぐや姫!』の影響もあり、かつて一世を風靡した名曲たちが、再び人気を得ている。しかし、そんな過去の消費も、いずれは在庫切れになる。

そうなればボカロシーンは、再び「砂の惑星」と化すだろう。本曲はそんな未来を避けるための警鐘でもあるのだ。

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