Ⅰ. 導入・問題提起|「偽り」が日常になった世界で
ツミキによるボーカロイド楽曲『フォニイ』は、2021年に発表されて以降、異例のスピードで再生数を伸ばし、瞬く間に「現代的虚構の象徴」とも呼ぶべき存在となった。歌唱を担当するのは歌愛ユキ。幼さの残る無機質な声が、「あたしって何だっけ」と自問する言葉を繰り返すたびに、リスナーの内側で何かが揺れる。この楽曲は、たんに「嘘をつく少女」の物語ではない。それは、自己と他者の関係性が希薄になり、世界そのものがフェイクで満ちているという“現代の不安”を映し出す歌である。
本記事では、『フォニイ』を読み解くための鍵として、筆者独自の批評概念である〈自己の希薄化〉と〈代理技術〉を用いる。前者は1990年代以降、他者との関係を「キャラ」や「役割」としてしか構築できなくなった社会的傾向を指す。後者は、VtuberやSNSのように、身体を媒介せずに自我を表象する技術の総称である。
『フォニイ』に登場する“あたし”は、まさにそうした文脈の中に存在している。歌愛ユキという「声」自体が、もはや自己ではなく、表象のためのインターフェースでしかないのだ。本稿では、まずこれらの概念の定義と背景を示し、続いて『フォニイ』における“声”と“身体”の分離、そして“他者”との接触不全を読み解いていく。最終的には、**この歌が私たちに突きつける「存在することの困難さ」**を浮き彫りにしてみたい。
Ⅱ. 本論|「声」という代理に託された、自我の亡霊
まず〈自己の希薄化〉について定義しておこう。この概念は1990年代以降の日本社会、特に**「キャラ消費」が加速したポスト・バブル期以降**に顕著になった傾向である。かつては“私”という主体は内面を基盤として成立していたが、現代においては、SNSやメディア空間によって、複数の自己=“キャラ”を場面ごとに使い分けるようになった。これにより、自己は一貫性を失い、ただの表面にすぎない存在となっていく。
『フォニイ』の冒頭、「この世で造花より綺麗な花は無いわ/何故ならば総すべては嘘で出来ている」という歌詞は、自己が真実であるという保証が失われた時代の告白である。この一節は、世界そのものがフェイクであり、そこに適応するためには自分自身も“フォニイ(偽物)”にならざるをえないという状況を描いている。
ここに接続するのが〈代理技術〉である。この概念は、自己が「直接」他者と関わることを回避し、「代理的」な存在を介して関係を築くという傾向を指す。Vtuber、SNS、音声合成ソフトなどがその典型例だ。『フォニイ』においては、ボーカロイド(歌愛ユキ)という存在自体がまさに“代理”である。彼女の声は人間の身体性から解放され、匿名性を帯びたデータの連なりとして発せられる。こうした技術的構造は、〈自己の希薄化〉と極めて相性がよい。なぜなら、「本当の私」を差し出さずとも、社会に参加できてしまうからだ。
「簡単なこともわからないわ/あたしって何だっけ」という問いは、単なるアイデンティティの揺らぎではない。“あたし”という主体がもはや空洞であること、つまり存在の根拠を持たないことへの直視である。さらに、「鏡に映り嘘を描いて自らを見失った絵画メイク」というフレーズは、自分を自分で偽る行為=セルフプロデュースの苦痛を象徴している。この偽装が、〈代理技術〉によって加速された“自分の代理人”としての生き方なのだ。
また、『フォニイ』の興味深い点は、「声」は存在していても、「身体」は描かれないという点にある。「湿らす前髪」「鏡に映る顔」などの描写はあるが、それらはどれも“身体の実感”ではなく、映像・記号としての身体にとどまっている。この構造は、同じくボーカロイド楽曲であるAimerの『カタオモイ』やVaundyの『napori』といった、「実体を欠いた恋愛表象」と比較すると鮮明になる。これらの楽曲では、恋の相手は現実にいる存在として描かれるが、『フォニイ』では、他者と繋がる術すら曖昧である。ゆえに「なぜなぜ此処が痛むのでしょう」と歌われても、それは他者との摩擦ではなく、自壊による痛みなのである。
では、なぜこのような表現が2021年に響いたのか。その時代的背景には、パンデミック下での孤立感、SNS依存、実体なき承認欲求の肥大化がある。言い換えれば、『フォニイ』は**「他者と接続しないまま孤独を歌う」楽曲**であり、それが多くの若者の「いま」に寄り添ったのだ。
Ⅲ. 結論・余白の提示|「フォニイ」が残した“声”のかけら
『フォニイ』は、「嘘に絡まっているあたしはフォニイ」と繰り返しながら、決して“本当の私”に辿り着こうとはしない。むしろ、それを放棄することでしか生きられない存在の歌なのだ。ここでは、嘘は単なる欺瞞ではなく、サバイバルのための仮面である。そして、ボーカロイドという技術自体が、その「仮面としての声」を体現している。まさにこの構造こそが、〈自己の希薄化〉と〈代理技術〉の交点に他ならない。
「造花だけが知っている秘密のフォニイ」というラストは、本物の花ではなく、嘘の中にしか“真実”が残らないという逆説を示している。この表現は、答えの出ない時代にあって、私たちがなお「声を発すること」に意味を見出す可能性を示唆しているのかもしれない。たとえそれが“誰かの代理の声”であっても。
「私は偽物だ」と叫ぶ声こそが、最も真実に近いという逆説。
この不確かな時代において、その矛盾を抱きしめるように歌う『フォニイ』は、誰よりも「本物」の歌である。
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