【歌詞考察】ピノキオピー『神っぽいな』—「“ぽい”の深淵とちいさな祈り

ピノキオピー

導入──“ぽさ”が世界を書き換えるとき

「愛のネタバレ『別れ』っぽいな/人生のネタバレ『死ぬ』っぽいな」

2021年の年の瀬に公開されたピノキオピーの『神っぽいな』は、発表から3年以上たった今もSNSのあちこちで引用され、「○○っぽい」という定型句だけが雪だるまのように転がり続けている。この記事でわたしがあらためてこの曲を取り上げる理由は単純だ。耳に残るメロディや鋭い歌詞以上に、たった一語の “ぽい” がわたしたちの暮らし方そのものをそっと映している気がするからである。

本稿では、SNSや生成AIなど“自分の代わりに動いてくれる”道具を 〈代理技術〉 と名付け、そこから生まれる 〈自己の希薄化〉、そして〈他者のリスク化〉へとつながる流れを追いかけてみる。難しそうに聞こえるかもしれないが、要は「誰かに見せるための“それっぽい自分”をつくる時、心の芯はどうなっているのか?」という素朴な疑問を言葉にしてみる試みだ。


本論──〈代理技術〉→〈自己の希薄化〉→〈他者のリスク化〉、ぐるぐる回るサイクル

1. 〈代理技術〉:ボタンひとつで届く“私っぽさ”

SNSの「いいね」やバズり狙いの切り抜き動画、ワンクリックで描けるAIイラスト。こうした仕組みをここでは**〈代理技術〉と呼ぶ。便利なのは言うまでもない。けれど、この便利さが続くと、投稿するわたしはしだいに“数字を集める営業担当”**のようになりがちだ。『神っぽいな』の

とぅ とぅる とぅ とぅ とぅる

という無邪気なスキャットは、終わりのないタイムラインを親指でスッと送るリズムにそっくりだ。目立つフレーズさえ並べれば、とりあえず“それっぽく”なる。裏返せば、中身よりもウケが先に立つということでもある。

さらに言えば、アルゴリズムは「面白かったらリプレイする」「最後まで観たら次も似た動画を勧める」といったシンプルなルールで動く。だから、人は無意識に“引っかかりやすいパーツ”をかき集める。炎上気味のタイトル、過激なサムネ、そして「神っぽい」圧の強い言い回し。〈代理技術〉が求めるのは完成度ではなく、ワンフレーズで注意を奪える即効性だ。『神っぽいな』のサビが一度聴いたら耳について離れないのも、その仕様を逆手に取った作曲術と言えるだろう。

2. 〈自己の希薄化〉:数字がわたしの名札になる

バブル崩壊後の停滞とインターネットの急成長が重なった1990年代から、わたしたちは「自分は何者か」を数字で説明する場面が増えた。学歴や年収に始まり、いまや再生数やフォロワー数がその役目を引き継いでいる。『神っぽいな』が引用するニーチェの

“Gott ist tot(神は死んだ)”

は本来ずしんと重い言葉だが、曲のなかでは軽やかな飾りに変わる。深刻な問いを“ネタ”に変えてしまうこの感じこそ、数字優先の空気を物語っている。「自分の芯が空になっていくのを、楽しいノリでごまかす」──そんな薄さがここにはある。

もう少し身近な例を出そう。たとえば「バズった翌朝、数字が増えているのに、自分は昨夜と何も変わっていない」という違和感。あるいは「推しの評価が下がると、自分の価値も削られたように感じる」という胸のざわめき。これらは、外側の数字を内側の体温と取り違えることで起こる。『神っぽいな』が“神”という最上位の肩書きを冗談めかして連呼するのは、この取り違えをわざと極端に膨らませて見せるギャグなのだ。

3. 〈他者のリスク化〉:数字を奪い合う海で

数字で並ぶ世界では、他の誰かが味方にもライバルにも一瞬で変わる。曲の

「害虫はどっち」

という一行は、その危うさをピタリと言い当てる。憧れていた“神”が、次の瞬間には叩き落とす対象――“害虫”になるかもしれない。叩けば自分の数字が伸びる、だからまた叩く。こうして、〈代理技術〉が作った舞台で、弱った〈自己〉は他者をリスクと見なし、さらに舞台を活性化させる。まさにぐるぐる回るサイクルだ。

くわえて、無数の評価ボタンは「好意」以上に「拒絶」を可視化する。低評価、ブロック、晒し投稿──ネガティブなアクションほど拡散速度が速い傾向にある。怒りは燃料として高カロリーだからだ。『神っぽいな』が最後に見せる高揚感は、憧憬と攻撃が判別不能になる“熱狂”の温度を測っているようにも聞こえる。


結論──わからなさを抱えたまま、もう一度踊る

『神っぽいな』が映すのは、便利さと引き換えにスカスカになっていく主体、その不安を紛らわすために“っぽさ”を着替え続けるわたしたちの姿だ。曲の最後、

「すべて理解して患った/無邪気に踊っていたかった 人生」

というラインは、「わかったつもりになったときこそ、心が苦しくなる」という逆説を残して終わる。ここに、わからないままにグラつく力――わたしがネガティブ・ケイパビリティと呼ぶ余白――への小さな祈りを感じる。

けれど同時に、SNSがもたらした連帯の芽も忘れたくない。匿名の誰かが放った「しんどいね」の一言で救われる夜がある。AIが描くイラストが、描けない人の想像力を助けることもある。つまり〈代理技術〉の呪いは、扱い方次第でささやかな祝福にも転じる。

数字でも肩書でも測れない“よくわからない自分”を、そのまま抱えて踊る。そんな不器用さこそが、空洞に流れ込む一筋の空気になるのかもしれない。答えは出ないまま、けれど踊りは続く。その揺れの中で、「ぽい」以上の何かを見つけられるかどうか――それはこれからのわたしたち次第だ。

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