【歌詞考察】DECO*27『テレパシ』「あいうぉんちゅーコールが届かない」が映すリスク化された恋と残響

DECO*27

I. 導入――恋はもう安全圏にはないけれど

耳に残る「:-b ;-b boy」という絵文字のリフレイン、そして胸の奥をくすぐるようなシャウト。『テレパシ』は、軽快なビートに乗せてリスナーをいたずらっぽく手招きしつつ、“伝わらなさ”という静かな切なさをそっと差し出してくる。

「あいうぉんちゅーコールが聞こえなーい」

この短い叫びには、せっかく伸ばした指先が空を掴むようなもどかしさが詰まっている。ここで可視化されるのは「好き」という磁力よりも、つながろうとする行為そのものがはらむ微量の危うさ――〈他者のリスク化〉だ。そして歌詞のあちこちに散りばめられた “エンド” を示唆する言葉たちが、私たちをそっと後ろ向きの時間へ連れてゆく。

〈アンハッピーエンドじゃつまんない〉
〈勝ちに行って負けるの何回目〉
〈大好きの壁打ちやっています〉

語り手は、終わってしまった舞台装置の隙間からもう一度スポットライトを探し当てようとしている。それが筆者の独自概念である〈アフター系〉――“すべて片付いた後、ほこりの立つ床で再び物語を始める態度”と重なる。本稿では、〈他者のリスク化〉〈アフター系〉という二つのレンズを中心に、さらに橋渡し役として〈代理技術〉を挟み、『テレパシ』が鳴らす“壊れかけの電波”**を読み解いていく。


II. 本論――リスクと残骸を踊るテレパシー

『テレパシ』を貫く電流は、三つの概念――〈他者のリスク化〉、〈代理技術〉、そして〈アフター系〉――が絡まり合いながら脈打つリズムだ。まず、炎上が日常化した2010年代後半以降、他者は「甘い癒し」ではなく「簡単に牙をむく不確定要素」として立ち現れた。歌詞に踊る〈伝播する義務ラブ〉〈要承認ハート〉は、恋心ですらマナー審査を通らねば配信できない窮屈さを映し出す。語り手が〈勝ちに行って負けるの何回目〉と諦め混じりに数え上げるたび、失敗は「事故件数」として蓄積され、好きという感情はそっと棘を帯びる。

そこで差し出されるのが〈代理技術〉だ。絵文字「:-b ;-b boy」の軽やかさは真正面の告白を緩衝し、SNS というバッファを経由することでダメージを和らげる。だが同時に、回線上の感情はホワイトノイズを巻き込みながら拡散し、本来の輪郭を失っていく。すべてが「冗談のような本当」であり「本当のような冗談」に霧散していく。〈あいうぉんちゅーコールが聞こえなーい〉という嘆きは、そんあな増幅し過ぎた電波が自らをかき消してしまう逆説を示している。

そして舞台は“終わりのあと”へと滑り込む。〈アンハッピーエンドじゃつまんない〉と結末を茶化し、〈大好きの壁打ちやっています〉と相手不在の独唱を続ける語り手は、まさに〈アフター系〉的地平――物語の瓦礫の上でなお小さく灯をともし続ける態度――に立っている。希薄化した自己は代理技術を抱え、リスク化された他者へ向けて送信を繰り返す。そのループがビートとなり、飽和したテレパシーは〈ザッピング〉へ変質しながらも、最後には叫び声の純度へ磨き上げられる。

こうして『テレパシ』は、傷つく危険を孕んだまま、それでも「もう一度」を欲しがる心の動きを、軽やかな絵文字と冗談っぽい歌詞の間に挟み込む。三つの概念は、好きとリスク、緩衝とノイズ、終わりと再演という三層の往復運動を生み出し、楽曲全体を“壊れかけの電波”に変える。届かないコールの残響こそ、この時代を生き延びるための静かな呼吸音なのかもしれない。

III. 結語――届かなくても、声は発される. 結語――届かなくても、声は発される

他者はリスクであり、通信は飽和し、物語はすでに一度幕を閉じた。それでも語り手は声を上げる。絵文字もスラングも剥がれ落ちた先に残るのは、届かないことを知りながら、それでも手紙を投函するような静かな勇気だ。

『テレパシ』が差し出す問いはシンプルで優しい――「それでも、あなたは呼びかけることをやめますか?」 ノイズだらけの時代に、私たちは「伝わる」ことだけをゴールに据えるのではなく、“伝えようとする行為”そのものを抱きしめる道を選べるかもしれない。

〈“feat. きみ”を ねえもっとちょうだい?〉

このフレーズは「成功したい」わけでも「報われたい」わけでもない。ただ、終わった後にも伸びていく夜の蔓のように、断絶を抱えたまま関係を続ける体温を欲しがる声だ。もしあなたの耳が少しでも開いているなら、遠くで微かに重なる誰かのテレパシーに気づくかもしれない。その瞬間、リスクだらけの世界の片隅で、小さな共鳴が息を吹き返すのかもしれない。

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