序章:「癒し」が示す裏側の影
『今はいいんだよ』という曲を聞いたとき、怖い曲だと思ってしまった。たぶんそれは「闇落ち」という状態について最近よく考えているからだと思う。『呪術廻戦』の夏油傑、『東京リベンジャーズ』のマイキーなど。「善人」だった人が、「悪」とされる価値観に染まっていくことを「闇落ち」という。
そして、なぜ人は闇に落ちてしまうのかという中二っぽいことを考えているわけなのだけれど、そのようななかで聞いた『今はいいんだよ』という作品は、私に「だから人は闇落ちするのか」と納得を与えてくれるものだった。
本論では「今はいいんだよ」という作品が含有している「癒し」と「闇落ち」の危険性について、歌詞の内容から考察していきたい。
だから本論は、本作に癒されている人にはぜひ読んでもらいたいものとなっている。
一章:『今はいいんだよ』に描かれる「癒し」と「強がり」
『今はいいんだよ』という曲は「癒し」である。
作中で描かれている人物は、とても弱い存在だ。努力は苦手であり、泣き虫であり、「明日」の訪れを恐れている。しかし、「強がらなくていい」という歌詞内容から察するに、この人物は虚勢をはっているのだ。
そんな人物に対して、この楽曲は「強がらなくていい」と語りかけ、「過去の夜の涙」を大切にする、つまり、自分の傷をきちんと認めてあげる大切さを説いたうえで「それだけで今はいいんだよ」と慰める。自分の弱さを認めること。強がりこそが自分を本当に苦しめるのだ、という切実なメッセージが込められているのだ。
一方で、そもそもなぜ強がろうとしているのか、という点について本曲は掘り下げていない。しかし、だからこそ「強がり」の強制が個人の資質ではなく、構造的なものによって強いられていることを暗に示しているのではないだろうか。個別的・具体的な背景を描写していないのは、多くの人が「これは私のための曲だ」と感じるための余白であるが、だからこそ「強がり」を強いる仕組み、つまり背景は一般的なものなのだといえる。
たしかに、私たちは至るところで「強がり」言い換えれば、ある特定の価値観にコミットすることが求められる。
あらゆるものがマネタイズされる現代では、特定の価値観を賛美し、対立する価値観を貶めていたほうが、経済的に都合がいいからだ。○○はダサい/××は素晴らしい、△△は「これからのトレンド」/▽▽は時代遅れなどなど…。
「いや、そんなことはない」という言葉がすぐに返ってきそうだ。「残業キャンセル界隈の人間として、そこそこ緩くホワイトなところで、強がりなく、要領よく生きているぜ」という人物もいるかもしれない。しかし、それも「要領よく生きる」=「カッコイイ」、「要領悪く生きる」=「ダサい」という価値基準に則った競争の一形態ではないだろうか。タイパ重視の「要領よく生きる」を全うしたとしても、それに「楽さ」を感じてしまうのであれば、キャリア的な不安は付きまとうだろうし、「要領悪く生きる」側の人々だって、要領よく生きる人たちに負の感情を抱いているからこそ、自分を肯定するためにビジネス書を買いあさるのではないだろうか。
いずれにせよ、二項対立の価値観でいる以上、どちらの立場においても「強がり」は発生する。
二章:「今は」という言葉が孕む残酷さ
私が怖いと思うのは「今は」という点である。
「強がる」ことは、どうやら強制されているらしい。そして、それは非常に疲弊するものであり、私たちは定期的に癒されなければならない。
穿ちすぎだろうか。「今は」という言葉が前提としているのは、強制と疲弊と癒しの無限ループなのだ。「君が君のままでいてよ」という歌詞の残酷さ。私が、私のままでいる限り、強制される「強がり」は傷を伴う。そして、ある人はこのループに気づく。癒しと傷つきの循環こそが、この「私」を本当に傷つけているのだと思うに至るだろう。「今は」ということの本当の意味に気づくとき、「社会」あるいは、その在りようを肯定している「セカイ」ともいうべき観念が立ち上がる。
実はこの構図は、社会学者・宮台真司が『制服少女たちの選択』などで説いている「宗教的本質」の構図と類似している。
宮台は「社会システム理論によれば、宗教の機能的な本質は、「前提を欠いた偶発性」を無害なものとして受けいれ可能にする(=馴致する)ことにある」という。そして、この形態に「<世界>における包括」と「自己における包括」がある。前者は、自己の側には縮小の自由しか存在せず、教義的には終末論的・黙示録的な形式をもつ。後者は「何かがつらいのは、つらい「出来事」があるからというよりも、それをつらいと感じる自分の境地がある」とし、形態としては自己啓発やセミナーなどの形をとる。
この『今はいいんだよ』という曲の本当の怖さ、危険性はここにある。先の構図に当てはめるのであれば、この作品は「君のままでいてよ」と呼びかける限り、その終着点は「<世界>における包括」となる。
しかし、そうであれば、この曲に癒されることは忌避すべきことなのだろうか。いや、そうではないはずだ。私たちには「君のまま」ということを受け入れつつも、傷つきと癒しの無限ループから抜け出す方法があるのだ。
結論:ループを抜け出すために――大人になるということ
「子供じゃないんだ。誰でも彼でも理解して欲しいとは思わないさ」
「どーせ誰も理解してくれないって腐るのもそれなりに子供だと思うけど」
これは冒頭で挙げた『呪術廻戦』の夏油傑と友人の家入梢子の会話である。このときすでに夏油はいわゆる「闇落ち」をしている状態にあることに注意したい。
この台詞からわかることは、自分を否定することも、無邪気に肯定し、世界の方を否定することも「子供っぽい」ということだ。
それは前節述べた「ループを抜け出す方法」とはつまり「大人になる」ということになる。「君のまま」という同一性を保ちつつも、無限ループを有する「世界」との付き合いをちょっとだけ賢く、うまくやること。それがここでいう「大人になる」ということだ。
筆者がこのようなことを言うのは好ましくないかもしれない。読者諸兄には察していただいているかもしれないが、この結論は充分に練り上げられたものではない。
だが、それでも『今はいいんだよ』という曲の「癒し」が充分に効かなくなったとき、「今は」という言葉が残酷に聞こえてしまったとき、それは大人になる頃合いなのだと私は思わずにはいられない。
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