序論:語り尽くされた名曲に、もう一度光を当てる
自分で言うことではないかもしれないけれど、本論は新解釈ということになるだろう。
取り上げる曲はみきとPの名曲『少女レイ』。
本曲は、「僕」の視点から語られる物語調の楽曲となっており、いじめが跋扈する教室を背景に親友である「君」との関係の変化が描かれていく。
この曲の一般的な解釈は「君」をいじめのターゲットとし、その結果「君」の命を奪ってしまった後悔を歌っている、というものになるだろう。
しかし、これから披露する新解釈は、こういったものとは違う。大きく異なるのは、本曲
で失われた命は二つある、ということだ。
なぜ、そのような解釈ができるのか。その起点となるのは最後の歌詞「透明な君は僕を指差した」である。さて、さっそく歌詞の意味や流れを編みなおしながら、新解釈を生成していこう。
一章:冒頭の踏切に潜む違和感——物語の時系列は壊れている
この曲には時系列的に妙な箇所がある。
一般的な歌詞考察では、どうやら「君」は「踏切」に飛び出すことで命を落とすことになっているようだ。
しかしそのようなエピソードは曲の冒頭に現れる。ここが問題である。物語調の曲であるならば、先の「踏切」の部分は物語のいわば「オチ」であり本来であれば最後まで取っておくべきだろう。
もちろん、冒頭に衝撃的なエピソードを置くことによって、受け手(この場合だと聞き手)の関心を集めるという手法だと解釈することもできる。
だが、そのようなものとして考える場合、不可解な箇所が新たに登場してしまう。それが「溺れてく其の手」という部分だ。確かに「いじめ」という暴力の濁流に「君」が巻き込まれるということを表現するために「溺れてく」というふうに文学的に表現したのかもしれない。
だが、ここでは物理的な意味で考えてみたい。つまり「君」は、いじめの一つとして、例えば学校のプールなどに沈められたという意味だ。思うに、もしそのような解釈を採用するならば「君」は、ここで命を落とすことになる。「夏の静寂を切り裂くような悲鳴」というのが、そのような事件が発生してしまったことを暗に表現しているのだ。
しかし、ここまで語ると読者は「いや、待てよ」と思うに違いない。
あまりにも突飛な解釈である。そうであれば「踏切」で命を落とした「君」とは一体だれなのか。第一、「溺れてく」というのを物理的・現実的な意味で解釈するのもかなり強引ではないか、と思うだろう。
問題ない。すべては繋がっていく。
まずは第一の謎。「踏切」で命を落とした「君」について考えてみよう。
二章:いじめの標的と加害の転倒——“僕”と“君”の入れ替わり
事前準備として、この曲には僅かばかりのSF要素が入っていることに注目したい。それが「幽霊」の存在である。「透明な君」という点から、『少女レイ』という楽曲は少なくとも「幽霊」の存在は許容できる世界観であることがわかる。
そして、そのようにSF要素を許す世界であるからこそ『少女レイ』には「タイムリープ」も存在すると筆者は主張したい。
それがサビの歌詞「繰り返す」である。これが、時が巻き戻ったことを示していると思うのだ。
そのように考えると、この曲ではタイムリープが二回発生しており、同時に筆者は「踏切」と「溺れる」のそれぞれで命を落とした者がいると思っている。そして更にいえば、これはそれぞれ違う人間なのだ。
どういうことか。話を整理すると次のようになる。
「本能が狂い始める」という歌いだしから始まる冒頭から「この儘愛し合えるさ」という箇所までの間では「踏切」で命を落とした者がいる。従来の解釈では、この被害者は「君」であるが、本曲が基本的に「僕」の語りだとするならば「踏切へ飛び出した」のは「僕」であるという風にも考えることができる。
しかし、その死の直前タイムリープが起こる。「この儘」の直後、サビで「繰り返す」と歌われているためだ。
「僕」が戻った過去は「九月」である。ここで「僕」はいじめの標的を「君」に移す。なぜそのようなことをしたのか。「君」を独占するにも別の方法があったはずだ。しかし、そのような方法を採用したのは、同じことを「僕」も経験したからではないかと思う。
つまりタイムリープ前の「僕」もいじめの標的になったことで「君」に依存することになったのだ。それをそのまま「君」に返したということなのだろう。
こうしていじめのターゲットとなった「君」は、しかし、「溺れて」命を落とすことになるのだが、ここで「僕」は自分の行いを後悔することになる。
そして再びタイムリープが起こることになる。「君」が溺れたあとの「僕」の懺悔の直後、本曲は「繰り返す」とサビに突入するのである。
さて、では二回目のタイムリープによって「僕」はどこに着地するのだろうか。
ここで大事になるのが「透明な君は僕を指差した」という一節である。
考えてみてほしい。「君」からしてみれば「僕」は裏切り者だ。詳細に言うまでもないだろう。いじめの標的として指定したのは「僕」なのだから。
「君」の瞳には、憎悪が浮かび上がっていたに違いない。「指差す」の意味も明白だ。その動作は「次はお前の番だ」という声なき絶叫である。後述することになるが、この憎悪を「僕」は受け入れたのだ。
「僕」の着地点も、ここで明らかになるだろう。「九月」の前後。「君」が暴力のターゲットになる前、踏切で命を落とす「僕」の運命が回り始めた時期である。
結論:踏切の笑い声——受け入れられた運命と復讐の終点
本当に「僕」は、踏切に至る運命を受け入れたのだろうか。
そんなことを思う人もいるだろう。
いささか歌詞の内容からは脱線するし、結果論的な話になってしまうが、ここではそんな問いに答えてみたい。
『少女レイ』を最後まで聞いていただければわかるが、この曲のラストは踏切の音で終わるのである。そして、その音と同時ぐらいに何者かの笑い声が聞こえる。
「僕」が踏切に至る運命を受け入れたと私が解釈するのは、このためだ。「笑い声」の正体は恐らく「君」であり、踏切の音で終わるのもタイムリープの終わりを示しているのだと筆者は考えた。「君」は復讐を果たしたのである。
改めて言えば、本論の考察・解釈が一般的なものとは大きく異なっているのは筆者も認めるところである。「タイムリープ」などという飛び道具が登場するのも、解釈としては反則ギリギリというか「それを言い始めたらなんでもありだろう」とツッコミが入りかねない。
しかし、依然として多くの人に聞かれ、多くのカバーが生み出され、誤解を恐れずにいえば「語り尽くされた」本曲。このあたりで一つ突飛な考察が登場してもバチは当たらないだろう。
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