【歌詞考察】ハチ(米津玄師)『パンダヒーロー』嫌悪と羨望のヒーロー、あるいは両義性の美学

ハチ(米津玄師)

序論:なぜ彼は「ブラウン管」を壊すのか

本論ではハチ(米津玄師)『パンダヒーロー』を取り扱う。2011年に発表された本楽曲は、30時間16分という驚異的なスピードで殿堂入りし、今でも「歌ってみた」などを経由して多くの人に聞かれている。

本曲の魅力は、楽曲のスピード感の他に中毒性のある意味深長な歌詞だろう。「意味が分からないけれど、癖になる」というような声は、この曲の評価を適切に表している。

ここでは、この「意味が分からない」を紐解いていきたいが、読みやすさのために、まずは大きな問いを記載しておこう。

なぜパンダヒーローは「ブラウン管」を壊して回ったのか。

この問いを解決することが、この記事の最終目的地である。

第一章:舞台設定と語り手の鬱屈

この曲は非常に物語的であることを、最初に指摘しておこう。小説的だと言ってもいい。それを象徴するのが、本曲の冒頭だ。

「廃材にパイプ錆びた車輪」「銘々に狂った絵画の市」あるいは「送電塔が囲むグラウンド」という点がそれである。これらは、本曲の舞台設定の歌詞とみて間違いないだろう。

少し整理すると年代的には近未来ではない。「送電塔」という言葉から現代だということがわかる。「廃材にパイプ錆びた車輪」についても、雑然としているところを考慮すれば舞台は少なくとも都市ではない。本曲が発表された時期を鑑みて「郊外」もしくは「地方都市」と思われる。そして、そのような地域のなかにあるのが「送電塔が囲むグラウンド」なのだ。少なくとも本曲の「語り手」は、そのようなところで生きている。

さて、そのような世界に生きている「語り手」とはどういう人物なのだろう。

ここで翻ってみたいのだけれど、前述したように本曲が「物語的」「小説的」であるとするならば、例えば小川哲『君が手にするはずだった黄金について』という小説などでも指摘されているように、主人公ないし語り手の語り手というは、なにかしらの鬱屈を抱えているのが定石である。

その指摘を踏まえると、なるほど確かに『パンダヒーロー』の語り手は鬱屈を抱えている。

「何でもないような声で愚図って さあ何処にも行けないな」という歌詞が、その鬱屈である。この鬱屈は同時に(いささか細かくなるが)語り手の年齢層も明らかにしてくれる。おそらく十代。もしくは二十代であっても前半であり、自身の居場所(地方都市、郊外)に不満を抱えつつも、都心に出ていくことができない人物だと思われる。

いかがだろうか。舞台設定、「語り手」の鬱屈、想定される年齢層などから、本曲が「物語的」「小説的」だということが分かってもらえたのではないだろうか。

第二章:「パンダヒーロー」にとって「敵」とは何か

そして、そのような「語り手」の前に現れたのが「パンダヒーロー」である。

だが、そもそも「パンダヒーロー」とは何者なのか。まずは特徴を歌詞の中から列挙してみよう。

「白黒曖昧な正義のヒーロー」

「きっと嫌われてんだ我ヒーロー」

「きっと望まれてんだほらヒーロー」

そして更に、このヒーローは何か超人的な能力を有しているわけではないことも歌詞の中からわかる。武器と思われるものは左手にもっている金属バットだけなのだから。さらにいえば、彼への報酬も「オピウム」とされていることを踏まえれば、決して清廉潔白なヒーローではないことがわかる。

しかし、それでもわからない部分はある。端的にいってしまえば、この「パンダヒーロー」は、誰と闘っているのか、ということだ。そこで重要になっていくのが、冒頭でも予告したとおり「ブラウン管」なのである。

「パンダヒーロー」にとって「ブラウン管」とは何なのか。まずはこの議論の補助線として、「ブラウン管」ないし「テレビ」という機械が象徴するメッセージをみていきたい。

このことを考えるうえで興味深いデータがある。

ご存じの読者も多いかもしれないが、日本社会においてテレビが普及したのは1950年代半ばから60年代半ばにかけてのことである。そして、この普及と同時に、日本社会からあるものが急速に消え始めた。

それは「子」である。

東京工業大学で社会学を先行している院生の研究によればテレビが普及すると同時に、名前に「子」と入る子どもの数が減った。この逆相関の詳細は、この研究を紹介している社会学者・宮台真司の『制服少女たちの選択』に譲るが、この研究をもって宮台は、テレビが「アメリカ的生活=文化的生活」というイデオロギーが輸入されたとしている。

本論の議論のために前述の考察を、さらに抽象化していえば、「テレビ」=「外部」という図式になるだろう。

事実、このような点からハチ(米津玄師)の楽曲を振り返ってみると例えば「米津が自閉空間を志向するのではなく、『YANKEE』以降に他者を意識した」(文芸評論家・藤井義允)という指摘があるように、逆にいえば、それ以前のハチ(米津)の楽曲は、自閉的な特色を帯びていたということになる。

以上のことを踏まえれば「パンダヒーロー」にとって「ブラウン管」とは、「世界」や「社会」などの「外部」を象徴していたものであり、それへの破壊行為は、自閉的な空間への執着だったのだ。

端的に言ってしまえば、パンダヒーローの敵とは「外部」であった。

つまり、それは「語り手」にとって、どこにも行けないという鬱屈を温存させるものであると同時に、「どこにも行けないのは仕方ないことだ」という正当化(安心感)を与える存在でもあったという構図になる。故に、「きっと嫌われてんだ」と「きっと望まれてんだ」という特徴が両立してしまう、という不可思議なヒーローとなっているのだ。

結論:謎解きの終わりと月並みな言葉

いかがだっただろうか。

この楽曲は、鬱屈を抱えた「語り手」が「パンダヒーロー」という「語り手」にとって両義的な存在と出会う小説的な作品であることがわかったと思う。この記事の本懐だった「『パンダヒーロー』の意味不明さを解きほぐす」という目的は達成できたと考えるが、読者はいかがだろうか。

さて、最後に重要な点としては、この曲ないし「語り手」が、結局のところ「外部」に行きたいのか、そうでないのか、ということについて結論を出していないということだ。ここについて月並みなことを言えば、本曲の結論は「読者の手に委ねられた」というものになるのだろう。

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