【歌詞考察】カンザキイオリ『朝日』純愛を超えた関係性の物語

カンザキイオリ

序章:純愛という“素直な読み”の限界

いきなり持論に引きこむような形になってしまって恐縮だけれど、私は本曲を「二〇二〇年代に噴出している多くの人が求めていた関係の、最も純粋な表現の一つ」だと思った。

多くの人は花譜×可不(KAFU)『朝日』を純愛をテーマとした曲だと感じるのではないだろうか。しかし、それは早計であると言わざるをえない。

本論はそのことを証明するために記されたものである。以下に、まず本曲の素直な受け取り方を披露したあと、そこにいくつかの指摘をし、最後に本論の命題を証明することにしたい。ではさっそくみていこう。

一章:書き分けの欠如が示すもの──「私たち」としての語り

まず登場人物の整理からしていきたい。純愛という表現から、本曲に出てくる人物が二名以上だと推測している。これについては、歌詞内容もさることながら、花譜と可不というボーカル二名体制という点からも「純愛」がテーマ捉えることには妥当性がありそうだ。

そのような前提に立った場合、それぞれのキャラクターは、しかし、ほとんど同じような特徴を有していることがわかる。

例えば「だから君が怖い」という部分の前に置かれている歌詞に注目したい。冒頭では「仲間外れよりも/足並みそろえて」というふうに自己の価値観を披露している。さらに別の「だから君が怖い」という部分についても同様で「皆と同じ服や音楽が好き」と語っている。このことからわかるように、登場する二人は共通して、周囲に合わせることが善とする価値観のなかで生きていることがわかる。

さて、いうなればこの二人は「透明な存在」である。特徴や個性を押し殺し、匿名の海の中を漂う砂粒のような無個性の存在だ。そんな二人が出会い、惹かれ合う。この曲が「純愛」をテーマとしていると考えられるのは、先のような登場人物のほかに、中盤と終盤において「キスをしよう」と語っているためだ。

しかし、である。これはあくまで「素直な受け取り方」である。本論は、この考えを早計だと断じなければならない。

その根拠となるのは「だから君が怖い」と「私たち」という部分だ。どういうことか。ここで描かれている「純愛」が、異性愛におけるものであるのだとしたら、この曲はいささか不親切なのである。それは登場人物の書き分けが出来ていないからだ。

先に述べた「無個性」という特徴は、ここでは別にどうでもよい。肝心なのはお互いに相手のことを「君」と言ってしまっている部分であり、一人称らしきものが登場しない点だ。『朝日』が異性間の純愛の曲であるのだとしたら「僕」や「私」、「君」や「あなた」というふうに、それぞれが別の語り手だと明示的に示すべきところがあっても不思議ではない。しかし、本曲では、それがまるで意図されていたように、ほとんど隠されている。語り手たちは、互いに相手のことを「君」と呼びかけ、決して「僕」や「私」と語らず「私たち」として示している。これが『朝日』のテーマを純愛と見なすことができな理由となっている。

二章:「許されるのですか」と問う理由

では『朝日』の本当のテーマとは何なのか。我々に残されたのは、このような課題である。

まず結論から言ってしまえば、この曲は「透明な関係」を求めた曲であるというものだ。この「透明な関係」というのは筆者のオリジナルの概念なのだが、例えば「恋人」「友人」「家族」など既存の関係性を示す言葉では捉えきれない関係性のことを指す。

ここで昨今のカルチャーの状況を俯瞰してみると、このような関係を描いている作品が多く存在し、それが人気を博していることがよくわかる。例えば文学では本屋大賞を受賞した『流浪の月』(二〇二〇年受賞作)『52ヘルツのクジラたち』(二〇二一年受賞作)が挙げられる。アニメ・漫画でいえば、いささか毛色は異なるが「疑似家族」という、一般的な「家族」とは異なるという意味では『SPY×FAMILY』、漫画では『こういうのがいい』などがある。

いずれも、既存の関係性から逸脱した関係が描かれているものであることは、それらの作品に触れたことのある人間であればわかると思う。

なぜ、このようなモチーフが噴出しているのか、という点について、ここでは文量の関係から分析を行わない。だが、いずれにせよ『朝日』という作品も、さきのような作品群の一つに数えられるのではないだろうか。

だからこそ、というべきだろう。『朝日』には別途注目すべきフレーズがある。それが「周りと違う気持ちがあって」という箇所と「神様(この気持ちは)許されるのですか」と問うている部分である。

前者は、逸脱した関係を自覚している箇所であることは言うまでもないだろう。補足するならば、このような感慨を抱いてしまうのは、二人とも周囲と同調することを善とする価値観の持ち主だったからだろう。だからこそ「君」との関係に不安を覚える。そして故に「神様(この気持ちは)許されるのですか」と問うのである。

繰り返しになるが、この「私たち」の関係について、互いが惹かれ合っている以上のことは何もわからない。読者および視聴者の想像に委ねられているのだろう。そして、その想像力の彼方にあるのが、ここで描かれている「透明な関係」なのである。

結論:カンザキイオリが抽出した関係の純度

いかがだっただろうか。

先の分析に付け加えるのであれば、本作の作詞・作曲を「カンザキイオリ」が担当していることに注目すべきだろう。代表作『あの夏が飽和する』で描かれている関係性も、ここでいう「透明な関係」に近しいものである。しかし『朝日』は、そこからさらに物語性や性差をそぎ落とし、純粋な形で「透明な関係」を表した作品といえる。

いずれ、この「透明な関係」に注目した論を書くつもりではあるが、読者諸氏にも、他の作品にふれるとき、この「透明な関係」を見出してほしい。より豊潤な作品世界が、その先に立ち上がってくるはずだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました