序章:書かれなかった名曲へ
この曲の記事を書いていなかったのは忸怩たる思いだ。
永遠の名曲・ナナホシ管弦楽団『抜錨』を本稿では取り上げる。二〇一八年にリリースされた本曲は、「考察」を行うにしては時間が経過しすぎているのかもしれない。しかし、それでも私は、この曲を流行歌から名曲に引き上げるために、この記事を書く。
そのための準備として、本曲のテーマが「恋愛と離別」だという意見が、多く見受けられることは指摘しておかなければならない。
もちろん、この解釈は大きく間違っていない。しかし、冒頭で掲げたように「名曲」とするには、もう一歩踏み込んだ解釈を必要とする。それをこれから披露する。
本論を最後までお読みいただければ、この曲が「永遠の名曲」という理由がわかるはずだ。
第一章:赤い糸の行方——少女時代の名残としてのロマン
さっそく「恋愛と離別」というテーマにメスを入れていきたい。
たしかに歌詞を読む限りでは「さよならする頃 強いられるのは抜錨」や「それでも赤い糸 結ゆわえているのでしょう」というフレーズから、そのように連想するのも無理からぬ話だ。
しかし、ここで問題にしたいのは、この歌の語り手がどのような時期にいる人物なのか、ということだ。そこで手掛かりになるのが曲中に二回登場する「少女時代」という単語だ。注目すべきは、この前後の文脈である。
「船よ 船よ 荒波の中で 流されずいられたでしょう 水底に根差す あなたと穿うがった少女時代」
「皆そこを目指す(…)無辜むこでいた頃を 遠ざけるのは熱病」
ここで注目したいのは、「水底」「皆そこ」「荒波」という単語だ。
まず前者について、情景から考えてみよう。船は荒波の中でたゆたっている。しかし「あなた」という存在と一緒にいることで語り手は、それに流されることなく、その場にとどまることができた。これを曲中では「少女時代」と表現し、その時期は同時に「無辜」でいられた頃でもある。
しかし、そのような状況は一変する。「皆そこ」が「水底」の換言だということは明瞭だが、語り手は「無辜」であった「少女時代」から離別せざるを得なくなる。なぜか「熱病」によってだ。
この「熱病」については、病気そのものではなく、世間の流れというふうに理解すべきだ。このような「熱」が世相を表す言葉として登場することは珍しいものではない。もっとも身近な例は「バブル経済」だろう。「投機熱」とも呼ばれる。
一方で、この熱について「熱に浮かされる」という個人の内面を表現する語法もあるのは認めなくてはいけない。そこから更に「遠ざけるのは熱病」という点についても、「(あなたが私を)遠ざけるのは熱病」という風に注釈を入れれば、既存の「恋愛と離別」というテーマに寄り添う解釈もできる。
しかし、ここではあえて「熱」を「世相」と言い直したい。つまり「無辜むこでいた頃を 遠ざけるのは熱病(世相)」というわけだ。
なぜか。それはこれに続く歌詞に理由がある。「髪の長さ揃えて 爪の先を塗り直す」という部分だ。これを私は「成熟」の言い換えだと考えた。なぜか。この身だしなみの整え方が「就職」を想起させるからだ。このような言い換えは、荒井由実『「いちご白書」をもう一度』も用いている。もちろん『抜錨』は『「いちご白書」をもう一度』ほど、直接的な言葉を使用しているわけではないが、しかし「「(あなたが私を)遠ざけるのは熱病」と接続しようとすれば、その途端「髪の長さ揃え」るのも「爪の先を塗り直す」ことにも必然性がなくなる。
そして、このように「少女時代」からの離別、つまり「成熟」というのが本曲の核心部分だとすると、なるほど本曲で繰り返される「底知れぬものだけに 怯えるのではないでしょう」というような達観した視点にも説得力を与えることができる。
さらに続ければ「赤い糸」という表現も、「少女時代」の名残だと考えることができる。そのように考えることができるからこそ「成熟」を本当のテーマとした本曲は、その最後「いつかは赤い糸 断ち切るのでしょう」というふうに「少女時代」からの決別、純粋無垢に人を愛せていた時代からの決別を添えるのである。
つまりこの曲は単に「恋愛と離別」をテーマに歌っているのではない。それに伴う「子どもから大人への成熟」も、歌っているのである。
第二章:内省の時代と『抜錨』——2018年というリリース年の意味
さて、ここからが本論の本丸である。なぜこの曲は「流行歌」ではなく「永遠の名曲」なのか。理由はシンプルである。それは本曲が、ボカロ曲の歴史のなかでも重要な時期にリリースされているからである。
ボーカロイドの歴史を考えるうえで、大きな事件の一つといえばハチによる『砂の惑星』の登場だろう。詳細は割愛するけれど『砂の惑星』がボーカロイドという歴史に一つの終止符を打ったとする見方が存在する。端的に言えば、それはボカロ曲というカルチャーの停滞を表していたのだ。
ここでは『砂の惑星』の発表が二〇一七年だったことに注目したい。『抜錨』の前年である。別のところで改めて検討するが『砂の惑星』以降、ボカロ曲はいわば「内省」の時代に入ったと思う。同年はカンザキイオリ『命に嫌われている。』、ヘルニア『取り柄のないクズだって生きてていいだろが』(二〇一八年)『グッバイ宣言』(二〇二〇年)など。その他、自己のアイデンティティの揺らぎを歌った、すりぃ『テレキャスタービーボーイ』(二〇一八年)も登場した。
私見ではこの二〇一七年から二〇二〇年頃までは、「私とは」「大人とは」「子どもとは」と言ったように、曲のテーマを「自己の内省」とするものが多く登場し、人気を博した。
ここまで書けば、もはや言わずともわかるだろう。二〇一八年に登場した、この『抜錨』も、間違いなくこのような時代の雰囲気を明確に捉え、作品として昇華した。
このような意味において『抜錨』は「流行歌」ではなく、歴史に組した「永遠の名曲」と呼ぶにふさわしい。少なくとも私はそう考えるのである。
結論:流行歌から永遠の名曲へ
いかがだっただろうか。
繰り返しになるが、「恋愛と離別」そして「成熟」というように多層的な読み方が出来るという意味において『抜錨』は名曲と言われる資格を有していると思う。
そして、二〇一〇年代後半のボカロシーンにおいて、その時代の雰囲気を有した作品としても、ボカロ史に残る傑作なのだ。
だが、そのような理論でとらえなくとも「成熟」という誰もが通り過ぎる人生の一場面に伴走してくれる本曲を、名曲と呼ばない理由はないように思える。


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