【歌詞考察】柊マグネタイト『ディスクローズ・フリック』なぜこの曲は「私」を必要としないのか

柊マグネタイト

序章:「炎上」という主題は、すでに語り尽くされている

非常に難しい楽曲だというのが、第一印象であった。

本稿で取り扱う柊マグネタイト『ディスクローズ・フリック』という曲のことである。

本曲のテーマは明確だろう。

「炎上」

これである。

あるいは、インターネットという狂騒空間と言ってもいいかもしれない。

しかし、この曲は大きな問いを私たちに抱かせる。その問いとは「なぜ今、このテーマなのか」ということだ。

この問題を解決するためには、ボーカロイドというカルチャーのなかにある細い糸を手繰り寄せなければならない。そのために本稿では、まず最初に類似のテーマとの相違点を挙げ、その相違に対し、前述した「細い糸」を導きの糸とし、最初の問いに答えていくという道を歩む。

この道の先には、本曲が示す「到達点」が見えてくる。「炎上」というテーマの完成形。それが本曲なのだから。

第一章:一人称の欠如が意味するもの

近年のボーカロイドについて言えば、いわば「社会派」とでもいえるようなテーマを取り扱う曲が人気だ。本サイトで考察したが雨良の『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』が、その最たる例だと思う。他にもAnythingBecomeMoe『次元通信』を挙げてもいいかもしれない。

そのような観点からいえば柊マグネタイト『ディスクローズ・フリック』も、そんな「社会派」の視点を有している楽曲といえるだろう。

しかし、である。

「炎上」ないしインターネットという狂騒空間をテーマとした楽曲は珍しいものではない。直接的に描いているわけではないが、柊マグネタイト自身の『テトリス』も、そのような狂騒に翻弄される「個」を描いているし、吉田夜世『オーバーライド』についても同様のことがいえる。少し視野を広くすれば、二〇一八年にリリースされたCreepy Nuts『教祖誕生』についても「炎上」をテーマとした楽曲だ。

そのような環境のなか、『ディスクローズ・フリック』には一つの大きな特徴がある。それは、ユーザーの「実存」を描いていないという点だ(「実存」というと、二〇世紀ドイツ哲学で用いられた言葉だが、ここでは「心情」ぐらいに捉えてもらって構わない)。

振り返ってみれば、先に挙げた曲たちは、やはり視点は「個」にある。『オーバーライド』は「じゃあワタシなど要らない」、『テトリス』にも「私は終わってる」、『教祖誕生』には「俺はあぁはならねえ」といった具合だ。

だが『ディスクローズ・フリック』は、それらと一線を画す。注意深く歌詞を読んでいけばわかるだろう。

そう。

この曲には一度も一人称が用いられていないのだ。

冒頭で私は、この曲をいわば「社会派」という言葉で形容したが、その私情を徹底的に排除したスタンスを鑑みれば、現時点での「社会派」の一つの到達とみていいだろう。

また、これは見事という他しかないが『ディスクローズ・フリック』の概要欄には次のようにある。

「この楽曲はゲームとのタイアップ曲です」

もちろん、この一言に対して穿った見方をするつもりもない。単なる告知であることは筆者としても承知している。

しかし、それでも「見事」だといえる。結果的に痛烈な皮肉となっているからだ。

つまり、淡々と描かれているインターネットの狂騒が「ゲームのタイアップ曲」なのだ。それはいわば、現実世界で起きている大小さまざまな炎上について「ゲーム的な感覚」で煽ってきた人々への最大の皮肉となる。

第二章:ボーカロイドは再び〈人でないもの〉を歌う

だが、これではまだ「なぜ今、このテーマなのか」という問いに対して充分に答えているとはいえない。

では、この問いに答えるための導きの糸とはなんだったのか。それを示す前に少しボカロの歴史を振り返りたい。

今でこそ全く珍しいものではないが、ボーカロイドが人間の実存を歌うのは、ひとつの革命を経てからだった。いわゆる「メルト・ショック」と言われるものだ。ここで詳細は割愛するが、いずれにせよ、原初のボーカロイドはあくまでも「キャラクター」という無機質なものに歌わせるためのツールだった。そのような意味において、本曲は先祖返りしているといえる。どういうことか。

先のような歴史があるボーカロイドカルチャーにおいて、その得意とする形態は「擬人化」といわれるものだ。つまり、人ではないものからの視線を歌にするという手法である。例えば本サイトでは、現在でも人気の楽曲である内緒のピアス『プロポーズ』を「トラウマの擬人化」とした。

そして、そのような意味において『ディスクローズ・フリック』も一つの擬人化といえるというのが筆者の考えである。では、何に対する擬人化なのか。それは「SNS」そのもの、あるいは「アルゴリズム」といえる。このように断言する根拠は二つある。

一つは「さあ今聞かせて」という扇動だ。もし本曲の語り手が「SNS」の擬人化であれば、その存在意義は、ユーザーの自由な発信である。だからこそ、煽る。それが「SNS」の存在意義だからだ。

そしてもう一つ。これも前述と似ているが「何がおかしい」と歌う本曲のクライマックスである。注目すべきは、この平坦な口ぶりである。「何がおかしい?」と疑問を抱くことなく「何かがおかしい!」と反発することない。「SNS」それ自体は正義も悪もない。人間の倫理など、どうでもいいことなのだ。だからこその「何がおかしい」という無感情な一言。

もちろん、歌詞だけではない。MVにも注目すべきだろう。本曲に登場する女の子のキャラクターの横には一匹の動物が映りこむことが多々ある。その動物とはイルカ。恐らくMicrosoft Office 97から追加されたOfficeアシスタントであるカイルが元ネタになっているのだろう。重要なのは、そのイルカと横並びになっているということであり、次元を同一としていることの暗示だと筆者は考える。

故に、この女の子、彼女を語り手とする本曲そのものは、SNS、あるいはインターネット側から見た私たち人間の狂騒を歌ってると言えるのである。

結論:これは希望ではない——インターネットという夢の終わりに

最後に言わなくてはならないだろう。この曲が「なぜ、今なのか」という問いに。

端的にいえば、この視点こそが、同じようなテーマに残された最後の一つだったのだと私は思う。そしえ、それは同時に「ボーカロイド」だからこそ設定できる視点でもある。

「炎上」というテーマを中心に据えた楽曲において、本曲がラストピースになる可能性は充分にある。語り尽くされてしまった、という終幕である。それは逆にいえば、〇〇年代において盛んに語られていた「インターネット」というツールの希望に対する墓碑銘なのかもしれない。

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