【歌詞考察】雨良『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』世界の終わりと「ホコロビの唄」の正体

雨良

序章:ボカロ歌詞は「一歩進んだ」のか

ボーカロイドの歌詞が、時代に追いつき、追い越そうとしている。

雨良『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』を聞いたとき、私は心の中で深くうなずいた。この首肯は、LocalVoidというyoutubeチャンネルで本曲が一位を獲得したことに起因する。個人的には納得の一位であった。

そして冒頭の感想に戻る。「また一歩前に進んだ」と思ったのだ。このようなことを言うのは大袈裟かもしれない。製作者のメッセージにもあるように、この曲は一見すると「ミクテトがネルにntrれるお話」に過ぎないからだ。

しかし、私はこのような話以上の意義を本曲に見出した。それをこれから紹介したい。この自説の開陳の先にあるのは「あんたらに贈るホコロビの唄」という歌詞の本当の意味だ。

第一章:SomewhereとAnywhere──「Act」と「Director」の二層

本曲を評価する理由を端的に述べれば、その歌詞が今だからこそ歌われるべきだと感じたからだ。現代性があるといってもいいだろう。

改めて、歌詞を眺めてみると、そこには三人の登場人物がいることがわかる。ミク、テト、ネルだ。注目すべきはこの三人の役割である。

一人(重音テト)は「どうして、どうして」と訴える人物。眼前に広がっている現実に抵抗している。二人目(初音ミク)は、いうなれば「事なかれ主義」といったところだろうか。現実に対して抵抗するわけでも、反逆するわけでもない。起きた事象に「意味」を見出し、肯定的に受け止める人物である。

そして、三人目(亞北ネル)。「割って奪ってく NTR」という歌詞の語り手。特徴としては、状況を俯瞰してみることができる、というものだろう。「夢希望だらけ?」という自問に対し「偽りの種」と回答する。そんな冷笑主義者だ。

私は、この三人の役割に現代との符号をみる。そして、それこそが本曲を評価する理由の一つでもある。どういうことか。

この分析には、評論家・宇野常寛が『庭の話』の冒頭で語ったことが役に立つだろう。宇野は、世界を、人々を二つに分ける。「Anywhereな人々」と「Somewhereな人々」である。簡単に言ってしまえば、後者は、インターネット空間などで人々の評価を得ようと奔走する人々。前者がそんな人々が奔走するフィールドを設計する人である。宇野の分析は、この二分法から発展するが、本論では、この概念だけ借用しようと思う。私なりに言い換えれば、「Some」な人々たちは、いうなれば自分の人生というゲームのプレイヤーであり、「Any」な人々は、そんなゲームの設計者である。この構図を本曲に照合させると、一人目と二人目は「Some」な人々であり三人目が「Any」な人々の象徴というふうになる。事実、本曲のクレジットには「Act : 初音ミク・重音テト」「Director : 亞北ネル(cv:鏡音リン)」とある。

管見の限りだが、このような現代的な二層構造を一つの曲に組み込み、それを作品として昇華した曲は、昨今では本曲が唯一と言っていいのではないだろうか。

そしてもう一つ秀逸な点がある。それは本曲の「初音ミク」のキャラクターが、現代の多くのビジネスパーソンに当てはまるという点だ。

改めて、ミクのキャラクターを眺めてみると「ああして こうして 手に入れて」「見たことない景色がそこにあるの」といったように、何かを強く求めているような描写があることに気づく。かつて、書評家の三宅香帆は『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で、現代のビジネスパーソンの特徴を、他者性を介在させない、とした。人文書や小説などによって「思わぬ出会い」といったような他者性≒偶発性を排除する代わりに自己啓発本によって、純粋なビジネスパーソンとしてのマインドを内面化するといった説だ。

このような特徴は本曲のミクにも当てはまるのではないだろうか。この曲のミクもまた他者性=重音テトを排除する。同じレイヤーにも関わらず、だ。

そして更に、そんなミクは亞北ネルという監督者にとっては都合のいい存在となる。それはあたかも「実力主義」や「副業」を自ら礼賛し生産性を高めるビジネスパーソンが経営者にとって都合がいい存在であるように。

第二章:テトの転向──Directorが二人になる綻び

さて、これらのことがどうして「あんたらに贈るホコロビの唄」の本当の意味につながるのだろうか。

そのうえでまず考えたいのは亞北ネルの行動原理である。なぜ、この存在はDirectorとして振る舞い続けるのだろうか。その答えは曲中にある「承認欲求」だろう。ここにきて勘のいい読者であれば気づくと思う。どのような表現であれば、本曲の人物はいずれも「承認欲求」によって自分を駆動させている。

先程引用した宇野の議論も、実は上述の指摘を先取りしている。

「そしてここで留意したいのがこのようにSomewhereな人びとを中毒にして換金するプラットフォームの運営者たち=Anywhereな人びともまた、皮肉にも同じ構図の罠に陥っているということだ」(『庭の話』)

そう。本曲のタイトルの『バゥムクゥヘン』が、その形をもって表しているとおり、これら三名の根底は同質だということを暗に示しているのだ。

しかし、その中にも綻びのようなものは発生している。重音テトは次のように歌う。

「人生とかいう遊戯に 有意義に浸っていたいだけ」

ここでテトの主張が変化していることに気づいただろうか。冒頭のテトは「どうして、どうして」と繰り返してきた。本論の言葉で言うならば、現実に対して抵抗していたわけだ。しかし、曲の中盤において、先のようなことを歌うようになる。現実に対して距離を取り、冷笑するような態度をとっている。この転向こそ、綻びなのだ。言い換えれば、この転向は、テトをネルにし、Directorを二人にしてしまった。

そして、このような構図になった途端、これまで唯一の存在としてAnyな人として君臨していたネルの土台は揺らぐ。管理人は、設計者は、運営者は、二人も要らない。

この構図の変化こそ「ホコロビの唄」の正体と言っていいだろう。

結論:なぜ本曲は「今」歌われるべきなのか

繰り返しになるが、何度でも言いたい。本曲は傑作である。

これまでも、現代の構図に対して批判的な視座を持ち合わせる曲はいくつもあったし、その中にはヒット曲もあった。しかし、本曲のような広い視野は残念ながら持ち合わせていなかったと思う。あるいは、そのような曲があったとしても、評価する尺度を視聴者が持ち合わせていなかったのかもしれない。

本曲の登場と評価は2026年のボカロチャートに期待を抱かせるものだといっても決して大げさではないだろう。

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