序章:失恋という読解はなぜ「一歩足りない」のか
このような感性が生きていることが嬉しくなった。
そのように思わせてくれた作品の名前はLonePi『幸福刑』。私は、この楽曲に宿る感受性の懐かしさが嬉しかった。
さて、一度でも視聴した人であればわかるように、本曲は安易な読解を許さない。時間も場所もあやふやで、散らばっているフレーズは、そのほとんどが抽象的だ(例えば、時間については「真夜中」という単語が一つだけあるにすぎない)。
しかし本論は、そんな作品の歌詞を読み解くことで背景にある物語を読み取っていく。
読者のために先んじて言えば、本論では『幸福刑』を単なる失恋ソングとしての読解は避ける。恐らくこの曲のテーマに失恋を見出すのは多くの考察ブログが行っているところだと思う。ただ、筆者としては、単なる逆張りとしてそのような線での読解をしないわけではない、ということも急いで言い添えておく。
そうではなく、一歩足りない、と思うのだ。
この曲には、失恋の先、あるいはその背景を見出さなければならない。その手順を踏むことで、この曲に潜む、今だからこそ多くの人に聞いてほしいと思わせてくれる感性を救いあげることができる。
さて前置きが少々長くなった。
さっそくみていこう。
第一章:「最期は一瞬」――死の気配を読む
まず『幸福刑』のテーマが「失恋」だとする理由を述べよう。それは「絡まったのがどの糸なのか」と「暗がりの手元が指を切るだけ」というフレーズにある。
「運命の赤い糸」というような言葉がある。先の歌詞は、その「赤い糸」のようなワードから派生したものだろう。改めて整理すると、「どの糸」という混乱、「指を切るだけ」という自棄が垣間見えるような言葉選びから、本曲の通奏低音を「失恋」と考えるのは無理からぬ話だ。それ以外にも「捧げた心はどこへ」や「心じゃないなら/どうしてこそ死に対する隠んなに 痛むの?」という部分からも傷心を感じさせる。
いずれにせよ、上記の部分だけでも、この曲の中核が失恋だということに違和感を覚える読者は少ないだろう。
だが、私たちの読解は、ここで留まることを許さない。
問題はなぜ、どのように、どのような「失恋」が起こったのか、ということだ。
そして、これは突飛な考えかもしれないが、私は本曲について次のように思う。
語り手の恋愛対象である子は、すでに亡くなっている。そして、語り手の子は、その死に直接的、あるいは間接的に関わっており、その死の真相を隠蔽もしくは改ざんしている、と筆者は考える。これが「失恋」の背景である。
まず、この説の核となっている「亡くなっている」という点について。
「蝶も花も 最期は一瞬」
「重たい 冷たい 真夜中に/ひどく優しく 突きつける」
直接的にこそ描かれていないが、この歌詞の暗澹たる雰囲気を読者は感じ取ってくれるだろうか。無論、より強い根拠としては、この歌詞が歌われる時間のMVである。語り手と思わしき女の子が、椅子に座りうつむいている女の子の肩にてをかけるのだ。そして、そときに記されている歌詞「ひどく」から「つきつける」は真っ暗な背景に赤い文字となっている。この部分はぜひ、実際に本曲を視聴して欲しい。
さて、このことは同時に、語り手の女の子が、その「死」に深く関与していることを示している。なにせ、亡くなったと思われる女の子の肩に手をかけているのだから。
では、もう一つの謎。
なぜ「隠蔽した」と考えるのか。
これを次節でみていこう。
第二章:死を装飾するという倫理――名誉の問題
再び歌詞に目をやろう。注目すべきは冒頭の部分だ。
「夢の中でいつも逃げてる 間抜けた走り方」から「枕元に置いてきた言葉を 組み直す」である。ここについて、本曲を「失恋」のものとみるならば、傷心を慰めるための言い訳を自分の中で必死に組み立てている様子と見ることもできるだろう。
しかし、ここに先程の(いうなれば)「死亡説」と、語り手の関与の可能性を踏まえるならば、上述のフレーズは、さながらアリバイトリックを弄する容疑者の心情のようではないだろうか。
だからこそ、というべきだろうか。「暗がりの手元が指を切るだけ」という自棄の歌詞も、被害者との関係自体を絶たなければならないという必要性にかられた、苦渋の選択のように響く。疑われてはならない。隠している真相があばかれてはならないからこそ、関係自体は「なかったこと」にならなければならないのだ。
では、どうして語り手は、死に対する隠ぺい工作を行ったのか。
告白してしまえば、それはわからない。歌詞のなかには、それらしい言葉がないのだ。だが少なくとも、その真相は、被害者にとって不名誉に当たるものだと筆者は思う。なぜか。それを説明するために、「死」を装飾することに意義について、ある小説家の言葉を参照しよう。
ミステリー小説の起源について、小説家・笠井潔は「犯人は被害者を葬ろうとして緻密な犯行計画を練る。そのようにして殺害される人間は、戦場で偶然のように殺された無数の死者よりも、はるかに「人間的」に扱われているのではないか」という感性の関連性を指摘する(『大量死と探偵小説』)。
また笠井は、このミステリー形式による人間性の復権、その背景にある大量死は大量生と表裏一体の関係の可能性も指摘する(ただし、笠井自身は「この論証には不充分なところがある」と留保をつけている)。
そしてここでは、このような死を装飾する形式が、人間性の復権につながるという部分を拝借したい。そのことによって、「名誉ある死」を、自身の未来や生と引き換えに守る、という『幸福刑』の物語と、その魅力にもつながるからだ。
現代社会は、そのような(いうなれば)「コスパの悪い」人生を賞賛しない。「立派」という観念よりも、ルールの隙を突き、制度を「ハック」するような生存戦略を生きることが、多くの人にとって魅力的に映っているのではないだろうか。
そのような現状のなかで、「死」の装飾をもって「名誉」を守るという価値観を背景に組み込んだ、本曲の感性を筆者は賞賛したい。
結論:風前の灯としての感性、それでも
さらに続けるならば、この曲に宿る「戸惑い」も見過ごしてはいけない。前述したとおり
、本曲は「死」の装飾をもって「名誉」や「人間性」を守るという古くとも誇り高い感受性を有している作品となっている。しかし、その気高さが揺らいでいる部分もあるのだ。
「これは これは 誰のため?」
「なにが なにが 君のため?」
と自問する最後の部分がそれにあたる。
この曲は、自覚的にしろ、無自覚的にしろ、「名誉」に関する感性が、現代では風前の灯だということを感じ取っている。そのような揺らぎがある。
しかし私は、そのような部分も含め、本曲の感受性に拍手を送りたいと思う。

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