【歌詞考察】獅子志司『絶え間なく藍色』最後の逡巡、あるいは「僕ら」が「僕」を選んだ日

獅子志司

序章:これは、最後の逡巡である

これは、最後の逡巡である。

獅子志司の『絶え間なく藍色』は二〇二〇年に見出された飛躍の方向性を決める一因となった楽曲だったのだろう、と今になって思う。だからこそ「これは、最後の逡巡である」と強く感じた。

『ボカロソングガイド名曲100選』(星海社/柴那典,御丹宮くるみ,小町碧音,ヒガキユウカ)でも紹介されている本曲は「サウンド、リリック、MVのすべてが都会的であり(…)センスが光る作品だ」という評価のとおり、今でも、その「新しさ」に多くの人が驚く名曲だろう。

だがしかし、本論で注目したいところは別にある。「都会的」であることは疑いようがないが、この曲には「にも関わらず」と言いたくなるような、鈍色の光が宿っている。

この曲は「内省」と「成熟」の交差点にたたずむ。これを命題とし、その意味を本論では探っていこうと思う。

第一章:「成熟」を求めた時代

まずは本曲の立ち位置を捉えなければならない。「栄誉なんて案外ノリ」や「届かないのは嫌なんだ」というフレーズがあるように『絶え間なく藍色』は都会での「成功」を夢見る若者たちのエネルギッシュだが、軽やかな曲のように思える。浮かぶ状況は、これから「大人」になっていく若人たちの背中だ。

ボーカロイドの歴史から考えても、そのような文脈でとらえることは容易だ。二〇一七年にはEve『ドラマツルギー』が発表され、翌二〇一八年にはみきとP『ロキ』がリリースされている。詳細はそれぞれの記事に譲るが、この時期のボカロシーンの通奏低音は「成熟」であった。

そのような背景のなか二〇一九年に世に放たれた獅子志司『絶え間なく藍色』もまた、「子ども」ではいられなくなった「僕ら」の雰囲気を漂わせる。特に「悔いはないと心臓売った勝算なんてない」という箇所には、そのような「成熟」や「成功」への強迫的な観念が滲む。

しかし、一方で、そのような観念に対しても「内省」ないし逡巡がみてとれるのが、この曲の面白いところだ。

例えば「等身大の自己嫌悪/抱いて綴れ「こうでいたい」」という部分。この「いたい」という部分に注目してほしい。もし本曲が先に示したような「成熟」や「成功」への情念の身に突き動かされているのであれば、ここは「ありたい」というような未来や理想を志向するものでも不思議ではないはずだ。そう。「こうでいたい」というのは、理想があくまでも自身の足元、「いま、ここ」にあることを示す。

このように『絶え間なく藍色』には、ところどころネガティブなフレーズが挟まってくる。冒頭の「僕らは希望持って 恐れては叫んだ」などは最たる例だろう。

さて、ここで私たちは、二〇一七年以降の別の文脈にも目を配らなければならない。それが先程述べた「内省」という経路である。

第二章:「自分らしさ」というもう一つの道

ナナホシ管弦楽団『抜錨』を発表した二〇一八年、今でも根強い人気を誇るすりぃ『テレキャスタービーボーイ』もリリースされた。無理に「社会」に迎合するような大人になるのではなく「自分らしさ」を貫徹すること価値を歌った名曲である。そして二〇一九年に本曲が世に出た翌年——二〇二〇年は、この「自分らしさ」、いや、「社会」に背を向け「自己」を守り抜くこと、「内省」に対して最大級の肯定を送った曲が『グッバイ宣言』であった。

つまり、「大人になれ」「成熟せよ」という文脈(『ドラマツルギー』『ロキ』)と「自分らしくあれ」「アイデンティティを貫徹せよ」という文脈(『テレキャスタービーボーイ』『グッバイ宣言』)が混然としていた時期にあったのが『絶え間なく藍色』なのである。

前章でもみてきたように本曲には、そのような「成熟」とも「内省」ともとれるような、いうなればそれら二者択一に対する「逡巡」のようなものが歌詞の中に鈍く光っている。

だからこそ、というべきなのだろう。

私たちはここにきてようやく本論の一文目に戻る。

「これは、最後の逡巡である」と。

その後のボーカロイドのムーブメントは、軍配を「成熟」に挙げた。『オーバーライド』『超主人公』『テトリス』などにみられるように、二〇二〇年代前半において作り手も視聴者も、自己を加速させ成功や承認を求めて限界まで走り続ける「狂騒的な生」とでもいえるようなテーマで作品が生み出され、視聴者に受け入れられていった。少なくとも筆者はそのように思う。

故に、本曲は「最後の逡巡」であったのだ。

結論:「僕ら」は「僕」を選んだ

少しだけ付け加えよう。そして振り返ろう。「逡巡」の果てに選んでしまった「狂騒的な生」が見落としたものを。

『絶え間なく藍色』の歌詞で「僕」と「僕ら」が登場することは多くの視聴者は気づいていると思う。ただ、これらの使い分けには明確な差異がある。「僕」は「悔いはないと心臓売った勝算なんてない」という「成熟」の文脈で用いられ、「僕ら」は「希望持って 恐れては叫んだ」というような内面、いうなれば「内省」の文脈で用いられている。

そして、ここまで読んでくれた読者にはわかるとおり、ムーブメントの風向きは「僕ら」ではなく「僕」を選び取ったということになる。

しかし先にも挙げた『オーバーライド』や『超主人公』などが特に顕著なように「狂騒的な生」、その震源たる「成熟」結末は悲惨なものであり、孤独なものであった。「僕」が選んだ「成熟」は「僕ら」をバラバラにし、そして、失敗した。

孤独なままで突き進み「限界まで足掻いた人生は想像よりも狂っている」(『オーバーライド』)ことを目の当たりにしたのだ。

だから、次のことは一つの後悔である。

なぜ「僕ら」は「僕」を選んでしまったのか。もう一度「僕ら」として、悩み、苦しみつつも「社会」にサヨナラを宣言するわけでもない、うまくやれる方法が実はあったのではないか。そんなことを思わずにはいられない。

「僕ら」は「逡巡」の末に間違えた。失敗し、敗北した。

でも、きっと、もうやりなおせるとも思うのだ。なぜか。単純である。

見ず知らずの人たちが、音に耳をすませ、同じ言葉に心を打たれる。

そして繋がっていく。

そういう奇跡を私たちは「ボーカロイド」で紡いできたのだから。

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