序章:深夜0時の独白
今、これを書いているとき、時刻は深夜0時を回っている。
これから紹介する曲は、名曲であることはもちろん、筆者個人にとって大切な曲だ。だから、こんな時間でないと書けないと思う。多少酔っていたり、夜が更けていないと、自分の大切なものを披露することなんて、恥ずかしくてできないと思うからだ。
今から紹介するのはメル『さようなら、花泥棒さん』である。
十年以上前の本曲を、どのような角度で紹介するのか。それは、大袈裟にいえば、この作品が描いている「愛」と「生」の形を言語化するという試みである。そして私はこう思う。この「愛」と「生」は、今は支持されるものではない、と。多くの人が、この曲に「自分」を重ねることは出来なくなってしまっているのだとも思う。
けれど、一つの時代の在り様を示すことが、先の「多くの人」ではない人、今でもこの曲に「自分」を重ねることが出来てしまうような人のために、私は本論を書く。
第一章:性・死・罪——この恋を形づくるもの
この曲は、綺麗なものではないと思う。盛り込まれている描写には「性」も「死」も「罪」もある。そして何より、本曲が仄めかしているのは、そのような要素のなかで育まれた、いうなれば「灰色の恋」だ。一つずつ整理してみよう。
まず、本曲の通奏低音と思われる。「灰色の恋」という点について。
本曲の冒頭からして、少なくともこの曲は「恋」を扱っていることがわかる。「最低な恋をして曖昧に終わるんだ」という歌詞が、そのことを証明している。重要なのは、これを「灰色」と断ずることの根拠だ。
そこで肝要なのが、本曲の「性」と「死」と「罪」である。「汚したシーツ」や「その手で私の首を絞めて」「花を盗もうぜ」という描写が、それらを表している。では、これからがどうして「灰色」というふうになるのだろうか。ここで私たちは、本曲の語り部である「私」の背景にも想像を膨らませなければならない。
「私」は、恐らく自らの人生に希望を持てない人だったのだと思われる。「最低な人生で簡単に終わるんだ」という箇所に対して「案外さ それだけで幸せなのかも」というフレーズの連なりは、「私」の「絶望」を表している。「私」は、自らに期待せず、ただ凪のような穏やかな絶望を前にたたずんでいるのだろう。
故に、「性」「死」「罪」を示すような選択を、「私」は軽やかに実行してしまう。
さて、ここでは「軽やかに実行してしまう」と書いたが、この実行の原動力とは何なのか。それこそ「恋」なのだ。「汚したシーツ」「その手で」「盗もうぜ」という呼びかけ。これらは、一人では成し得ないことだった。
好きな相手への欲望が、「私」にとっての原動力だった。思うに、この相手のことを「私」は「春泥棒」と呼んでいたのだろう。そして「春泥棒」も、「罪」や「死」を、そのなかに抱え込んでいたのではないだろうか。「最高な君だって簡単に死んじゃうし」という一節が、この推測に根拠を与える。そして「春泥棒」という名前を、そのまま受け止めるのであれば「春泥棒」も何かしらの罪を負っていたのだ。
第二章:絶望のなかで選ばれた「恋」
さて、ここまででようやく「灰色」の意味を明らかにする準備が整ったと思う。
「私」は罪人に恋をした。それは、きっと「最低な人生」を終わらせることが幸福だと思っていた「私」の命を結果的に救ったのだ。
しかし「春泥棒」は「私」の前からいなくなった。恐らく命を落としたのだ。
その現実を認めつつも、「私」は「春泥棒」に呼びかける。
答えてくれるかもしれない、という祈りを込めて。
「花を盗もうぜ」と。
どこからも誰からも逃げる。およそ褒められた人間ではない「私」と「春泥棒」。「性」をも味わいながら、「私の首を絞めて」という言葉を吐き出させるような絶望的な「死」、あるいは「終わり」の予感。
この、誰からも祝福されない「私」と「春泥棒」の関係を、倫理ではなく欲望によって接続されたものとして、私は「灰色の恋」と呼ぶのだ。
ところで、この曲の特徴について一つ思うところがある。その特徴とは、命が軽い、ということだ。だからこそ私は、本曲に「自分」を重ねることが出来る人が減っているのではないか、と思う。特に「煙草を吸ったら」という部分は、現代における命に対する価値観の乖離を結果的に物語ってしまっている。
ただ、自分のことを振り返ってみた際、たしかにこの曲が発表された当時(二〇一五年)、命は、人生は、今よりも軽かったと思う。二〇〇〇年代からの時代の風潮により「勝ち組/負け組」と人生が選り分けられ、後者は「自己責任」の名のもとに、誰からも祝福も肯定もされなかった。
そして、祝福されない恋を、当時の私もしていた。色々なことがどうでもよかったし、自分の人生の先に光などなかった。少なくともそう思っていた。そんなときに聴いたのが『さようなら、花泥棒さん』だった。本曲に漂う明るい狂気が、自分を支えてくれたのだと思う。心のどこに収めておけばいいかわからない感情に対して、居場所を作ってくれた。そういった意味で、この曲は自分にとって名曲なのだ。
結論:世界に認められない恋のために
読者はどのように思うだろうか。この文章を読んでくれている人は『さようなら、花泥棒さん』を一度でも聞いたことがあるのだと思う。そして、この曲に対して何かしらの思いを抱えているのではないだろうか。「自分」を重ねることが出来る人たちだろうか。
改めて思う。このような曲は、もう登場しないだろう。現実にある恋愛も成形され、綺麗に取り繕われたものばかりだ。音楽というジャンルだけではない。現実の色恋についても、そのような形が求められているからだ。本曲は、そういった現代と逆行する。
けれども、こうも思うのだ。
人は、必要なときに、必要な形の恋をする、と。
そして、そんな必要な形が世界に認められないようなものであったとき、この曲は真価を発揮する。
「性」も「死」も飲み込んだ不器用な「恋」。そんな狂気をポップに歌い上げる作品。そのことで、言葉にできない感情を、一つの思い出として納めてくれる。そのようなものを私は名曲と呼びたい。
そして世界に認められない恋がある限り、この曲は必要とされ続ける。

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