序章:なぜこの歌は「象徴的」に響くのか
極めて象徴的な歌だ。人生の岐路を歌った本曲に自分を重ねた人は星の数ほどいると思う。傘村トータの『僕が夢を捨てて大人になるまで』というのが、その曲だ。
タイトルのとおり、この曲は「僕」が「大人」になることを決意する心情を歌ったものであり、奇をてらった歌詞表現が多いボカロ曲のなかでは、極めて素直なメッセージとなっている。それだけ自分を重ねることが容易でもあるということだ。
さて、ここでは本曲が「象徴的」とされる意味について考えていきたい。そして、その足掛かりとするため「僕」の「夢」の正体についても思案する必要がある。
前述したように、たしかにこの曲は自分を重ねることが容易なものだ。しかし一方で「僕」の視点から捨てられた「夢」とは何だったのか、ということについて考えた人は少ないだろう。自分のことのように聞こえてしまうからである。
ではさっそく、私たちは、この「夢」の正体について歌詞内容から考えてみよう。
第一章:「自分を信じる」という無邪気さ──自閉としての夢
一見すると、前述した「夢」の正体などというものは簡単そうにみえる。
なぜなら曲中で「いつまでも歌が歌えたらいい」やそれに類するフレーズが繰り返し登場するからだ。このことから「夢」とは、歌を製作し続けることのように思うのは無理からぬ話ではある。
しかし、現実的に考えた場合、それは必ずしも「大人」になることの代償となっているのだろうか。ごく当たり前のことを言ってしまえば、「大人」になっても歌を製作することは可能である。
そうであるからこそ、私たちは、自らが掲げた問いについて更に一歩進み、次のように問うべきなのだ。つまり、この「歌」の正体とは何なのか、と。
このことを考えるうえで大事なのは、曲中で示されている「大人」の特徴だ。曰く、「大人」になるということは「世界を知る」ことであり「周りの大人がそうであるように」「選べない」ことである。まずはこの二つを押さえておこう。
さらにもう一つ。「夢」や「歌」と並置されているフレーズに次のようなものがある。
「自分らしく生きていられたら」という一文だ。
これらのことを総合して考えた場合、「夢」とされる歌は、世界を知らなくても製作できるものであり、自分らしく生きることが許されるようなものであり、「選択」という可能性を提示できるものである、ということがわかる。そのようなメッセージを盛り込む「歌」を製作することが、ここでは「夢」とされているのである。
このような「夢」を捨てることが「大人」になることの代償として提示されているのだ。
そして、ここには注目すべき特徴がある。先程提示した「夢」の正体。その方向性。
世界を知らないこと、自分らしく生きること、自分の選択肢を広げることができるもの。このようなものを自らの手で作ること。
お気づきだろうか。
この三つはいずれも「自分」という存在への無限の信頼を背景としている、ということに。
「夢」としている「歌」の原資はいずれも「自分」だ。この無邪気な信頼がなければ、「世界」を知ることで書けることがあるという想定や「自分らしさ」を支える無数の「他者」という存在を無視することもできない。
「自分」という存在が、いくつもの製作物を生み出せる。「自閉」の姿勢が生み出す幻影がここにはある。もっとも、「自分を信じること」それ自体が直ちに他者の否定に繋がるわけではない。しかし本曲における「夢」は、他者の媒介を想定しないかたちで成立している点において、やはり自閉的な構えを帯びていると言わざるを得ない。
そして、この部分こと、筆者が本曲を「象徴的」と断じた一番の要因なのだ。どういうことか。次章でみてみよう。
第二章:「内省」と「成熟」の分岐点に立つ一曲
二〇一八年一〇月に生み出されたのが本曲だが、その当時のボカロシーンには大きく二つの潮流があった。本サイトではたびたび取り上げており、『ボカロ曲史私論』でもまとめたことではあるが、改めて説明すると「内省」と「成熟」という流れが二〇一〇年代後半のボカロシーンにはあったのだ。
前者は「自分らしさ」を歌い上げ、今でも根強い人気を有している『テレキャスタービーボーイ』(二〇一九年)や自らの内面——死生観を歌った『命に嫌われている。』(二〇一七年)などが挙げられる。一方で「成熟」については「大人になれ」と曲中でも歌っている『ロキ』(二〇一八年)や静かな成熟を語った『抜錨』(二〇一八年)がそれに該当する。
このような整理のなかにおいて『僕が夢を捨てて大人になるまで』は後者——「成熟」派の流れにおいて正当な位置を占める。この状況こそ筆者が本曲を「象徴的」と称した理由なのだ。だからこそ「内省」ないし「自閉」の幻影は「大人」への代償として切り捨てられた。(「成熟」という選択の結末は、『ロキ』論や『絶え間なく藍色』論でも記載したので、よければ、それらの記事も覗いてみてほしい)
結論:夢を捨てた私たちへ──この歌が持つ二重の意味
さて、一視聴者として、という視点に話を戻そう。読者諸氏は本曲を夢中で聞いていたであろう頃を振り返ってみてほしい。
本曲で苦渋の選択として選び取られた「大人」というルート。そのなかで必死につかみ、「いつの日か、もう一度」と握りしてめていた「夢」が、今再び、「大人」になった自分の手のなかに収まったとしたら、どうだろうか。
私は、ここで捨てられた「夢」を仮に持ち続けていたとしても、その寿命は決して長くなかったと思う。自分だけを信じ、世界を知らず、他者を知らず、それでいて誰かに「可能性」を無限に提示できるというのは、やはり幼稚で傲慢な考えだと思わずにはいられない。
無論、本曲を夢中で聞いていたことの自分にそのような説教臭いことをいっても、文字通り聞く耳を持たなかっただろう。
だからこそ、こんなことをひっそりと思う。ここで歌われている「夢」はやはり手放すべきだったのだ。「自分らしさ」を信じさせてくれていた「他者」を顧みない「夢」など、捨てるべきであり、やはり私たちは「大人」になるべきだったのだ、と。
そのように考えると、本曲には二重の光輪が宿る。
一つは、無邪気に自分を信頼していたあの頃、「大人」になることを怖がっていた自分へのエールとしての歌として。そしてもう一つは、「大人」になってしまった自分を肯定するための歌として。
名曲というのは往々にして、耳にするタイミングによって意味が変わり、深みを増すものである。そうだとすれば『僕が夢を捨てて大人になるまで』も、その名曲の一つに数えられるのではないだろうか。

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