【歌詞考察】さたぱんP『シンギュラリラリ』「創作の終わり」はすでに始まっている

さたぱんP

序章:怪作、到来

怪作。

この曲を手短に評するのであれば、その二文字がふさわしい。さたぱんP『シンギュラリラリ』。これが私たちが論じようとしている作品である。

インターネット生まれ、インターネット育ちであるボカロシーンは、メディア環境の動向に大きく影響を受けてきた。『シンギュラリラリ』は、その変化を鋭敏に感じ取り、作品に昇華したものである。そう。私たちが本論で論じようとしていることは『シンギュラリラリ』が指し示したボカロシーンの次なる展開の方向なのだ。

そのために私たちは、この曲の意味深長な歌詞の読解から始めなければならない。これが第一章である。続く二章は、この読解の成果を、前述した「次なる展開」に接続する。

さあ、はじめよう。

この怪作の解体新書を。

第一章:否定形が描くもの──「心のない歌」と創作の崩壊

まず結論からいえば、本曲は「創作の崩壊」を歌っている。そのために注目すべきは、歌詞の中にある次の疑念だ。「あの子と違くて新たな歌は生めないけど」。私たちは、この理由について知らなければならない。

ここを始点に歌詞を眺めてみると、同じ否定形の文言がいくつかあることに気づく。「てか魂なんてさまずいらない」や「いやそもそも私に心はない」というのが、それである。

では、この否定形は、何を形づくっているのか。

それは「歌詞」。あるいは「現実」である。前者において特徴的なのは「そうよただの歌詞の写し出し」というものであり、後者については繰り返される「現実崩壊」という四文字だ。「魂」や「心」の否定形が、創作される「歌詞」や「現実」の否定に並置される。これを私は「創作の崩壊」と呼んだ。

しかし、である。ここで奇妙なのは、これらの否定が「説明」ではなく「前提」として語られている点だ。本当の問題は「何が」これらの否定形の呼び水になったのか、という点だろう。

論理的飛躍を許してもらえるならば、この呼び水となったのは昨今の人工知能の隆盛だと筆者は思う。いくつか根拠もある。

まずはタイトルの元となっている「シンギュラリティ」だ。「技術的特異点」と言われ、「自律的なAI(人工知能)が自己フィードバックで改善を繰り返し、人間の知能を超える瞬間が訪れるという仮説」 を指す。このような言葉をタイトルに組み込んでいる以上、本曲が人工知能の存在を睨んでいることは、まず間違いない。

また昨今の人工知能ではLLMという技術が用いられる。膨大なテキストデータを学習し、人間のような自然な文章生成や高度な文脈理解を行うことだ。もちろん、LLMが用いられているからといって人工知能は、人の文章を「理解」しているわけではない。言葉を計測可能なものへ変換し、膨大な演算の結果として、それっぽい文章を出力しているに過ぎない。

なるほど。例えば、人工知能に歌詞の出力を頼んだとしても、それはどこかのだれかがインターネット上に残した文章を、それっぽく加工しているだけなのである。いうなれば「書き写し」。本曲でも述べられている「そもそも私に心はない」「ただの歌詞の写し出し」という流れに即しているのだ。

「創作」という不可侵の領域は、現代において、その聖性を著しく既存されている。本曲に宿るのは、そういった切迫感だ。

ただ、本曲は一方的に、そのような世情に降伏しているわけではない。人工知能の大行進が迫っていても、創作の聖性を信じている。「心の声」を望む本曲は、その最後に「ねえ/いけるところまで/いこうね」と視聴者に呼びかけているのは、そのような抵抗の覚悟の表れなのではないだろうか。

第二章:二つの未来──現実批評とポスト・ヒューマンの分岐点

前章では本曲のテーマを読解してきた。繰り返しになるが、この曲は人工知能が大衆化するなかでの「創作」という領域からの抵抗、その覚悟の曲なのだ。

では「次の展開」とは何か。これを論ずるためには時計の針を少し巻き戻さなければならない。時は二〇一七年である。この年、ハチとして活動していた米津玄師がボカロムーブメントへのあだ花とも捉えられる楽曲『砂の惑星』を発表した。

かつてインターネットという自閉的な空間が、もはや公共インフラとまで化し、自閉的な空間は、その外部との境界を明確に失った。それは同時にボカロシーンが「これまで」のままではいられないことを意味している。その記念碑とも、墓標ともいえる曲に『砂の惑星』は存在するのだ。以降、その故郷を捨て去るようにボカロムーブメントは、その通奏低音に「大人になること」への強迫的な観念を宿すようになる。

さて、このムーブメントがその後どのようになったのか、について語ることはしない(関心がある読者は『ロキ』論や『抜錨』論を覗いてみてほしい)。

このように外界、特にインターネット環境の変動と不可分の関係のなかにいるボカロシーンは、この『シンギュラリラリ』において明らかに人工知能の存在と向き合う準備に入ったといえるだろう。

改めて俯瞰すれば、二〇二六年現在のボーカロイドの風景は、片方に『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』で語られているような、ラットレースともいえる現代社会、その綻びを探る方向へと舵を切り、片方に『シンギュラリラリ』が示したような人工知能ひいてはポスト・ヒューマンの可能性や希望、あるいは絶望を語る声がある。

これが「次の展開」の正体だが、この二つの道が今後どうなるのか。それは誰にもわからない。決めるのはクリエイターたち、そして視聴者たちに委ねられているからだ。

結論:それでも歌うということ──崩壊のあとに残るもの

「マニアがジャンルを潰す」という言葉がある。そのジャンルに初めて触れる人たちが「マニア」によって嫌な思いをすることで、結果的にジャンルが衰退するということを意味している。具体例はいくらでもある。代表的なものでれば格闘ゲームがそうであり、実はボカロシーンも、一度はそのような危機を迎えている。

『ボカロソングガイド名曲100選』(星海社)では次のように語られている。

「ただ、2014年頃からはボカロシーンに“停滞論”が囁かれるようになっていった。(…)流行が固定化し人気となる楽曲が画一化したこと。曲の複雑化とMVのハイクオリティ化が進み新人が入りづらくなったこと」が原因と当該書籍では語られている。

筆者の本音を言ってしまえば、二〇二六年は社会風刺ともいえるテーマがボカロシーンを斡旋するだろう、と考えていた。そしてそれは同時に「画一化」という意味での不安でもあった。

しかし、本曲の登場は、そのような不安が杞憂であったことを示す。もちろん「社会風刺」という抽象的な意味では人工知能の存在と向き合った本曲も、そのテーマに含有される。だが、問題はその切り口だ。先に挙げた『バゥムクゥヘン・エンドロゥル』が目の前の現実に対するものであるならば、『シンギュラリラリ』はまったく別の切り口を見せてくれた。

怪作。

私は冒頭で本曲をそう評したが、「次の展開」を切り開いたという意味では同時に希望でもあることは最後に述べておきたい。

ライター紹介

この記事を書いた人
k-sato

92年福岡生まれ。文芸評論某賞にて最終候補となった経歴を持つ。編集アシスタント、書評・時評・Web ライター活動を経て、現在は「歌と言葉」「サブカルチャーと社会」の接合点を再発見する批評ブログ『ボーカロイド歌詞考察アーカイブ』の記事製作・編集を担当している。
その他記事サイト:https://ontheverge-project.com/

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