序章:語り尽くされた問題、しかし解決されていない
すでに語り尽くされた問題でもある。しかし、語り尽くされたからといって、その問題が解決したことにはならない。
Atena『キャラクターT』という曲が告げるのは、そういうものだと思う。
そして同時に、この問題に解答を与えようとしているのが本曲でもある。
これから語ろうとしていることは、この新しくも古い問題に対して、この曲がどのような解答を用意したのか、というものだ。そのためにはタイトルにもある「キャラクター」という言葉の深層をスケッチしなければならない。そのあと、本曲を聴いたことがある人であればだれでも想起するであろうYOASOBIの『アイドル』との比較を行う。
多くの読者は、このような概略に「どうしてそのような回り道を…」と嘆息するかもしれない。しかし、そのようなため息は一度飲み込んでもらい、少しお付き合いしてもらいたいと思う。
繰り返しになるが、『キャラクターT』が問うている問題は、新しくも古い。それはつまり多くの読者にとって響く射程を有しているということだ。だからこそ、入念に準備しなくてはならない。高く飛ぶためには、往々にして、多くの助走を必要とするものなのだ。
第一章:「本当の自分」は受け取られない——キャラクターの悲劇
「陰キャ」という言葉が市民権を得て久しい。この略称は「陰気」な「キャラクター」といったところだろうか。このように「キャラクター」という言葉は、現代を生きる私たちの現実を装飾するフレーズとして違和感なく受け入れられている。
しかし、少し時間をさかのぼれば、このような言葉のまえに存在したフレーズには「根暗」というものがある。「根」が「暗い」というのは言うまでもないし、この言葉が人格を表すものだということも分かってくれると思う。
一節によると、「根暗」という言葉が流通したのは一九八〇年代のことだ。一方で筆者の記憶が正しければ「キャラクター」という言葉で人の振る舞い、ないし人格を装飾し始めたのは二〇〇〇年代のことだったはずだ。
そして、この二つの言葉には断絶があることに注目したい。「根暗」は、それが「根」を指すだけであり、自らの手によって操作が不可能であるニュアンスが含まれている。だが「陰キャ」のなかの「キャラクター」という言葉には、操作可能であり「演技」という要素が含まれている。
この差異が何を示すか。筆者は、この変化を「他者」への信頼度とみる。
この点について社会学者・宮台真司の指摘は示唆に富む。
「「新人類」という言葉が誕生したのは一九八四年のことだ。もともとは、その少し前に話題になった田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に登場するような、おしゃれな記号的消費と対人関係とを結合した若者たちを指す。どんな車に乗り、どんなファッションを身にまとい、どんな店で食事をし、どんなスポットで遊ぶかで、相手を選び、また近寄ってほしくない種類の相手を自動的に遠ざけるような連中」(『制服少女たちの選択』)
この指摘が含意するのは「他者」へのコミュニケーションの前提にある「不信」の態度である。
八〇年代から〇〇年代にかけて、その態度は貫徹されているものの「キャラクター」という言葉が暗に語るのは、自己の演技性へのアイロニカルな眼差しではないだろうか。「根」という言葉にはない、自己への皮肉な眼差し。
つまり、「キャラクター」という語の普及は、他者が「本当の自分」を受け取らないという前提の普及でもある。
そして、この眼差しは当然のことながら悲劇的な自己認識を生む。それは愛の不在である。他者の視線が皮相的な「私」にしか向けられないのであれば、存在を肯定してくれる「愛」は自ずと陥没し、「キャラクター」を演じている限り「私」という存在は代替可能な「It」でしかなくなる。この悲劇の具体例は実際の事件やサブカルチャーの流行を含めれば、枚挙に暇がない。
さて、これこそが「キャラクター」の悲劇性であり、『キャラクターT』という曲が問うていることである。「キャラクター」は「愛」を得られるのか。そう我々に問いかけているのである。
第二章:「ラブ」と「愛」の分断——言葉が示す決定的な差異
YOASOBIの『アイドル』とは、まさにこの「キャラクター」の悲劇を歌った曲である。
「誰かを好きになることなんて私分からなくてさ」という有名な歌詞は、そのことを物語っている。そう断言しても異論はないだろう。
そして確かに、この点は当然のことながら『キャラクターT』と類似している。『アイドル』ほど直截的には歌っていないものの、「何を求めて生きている?」など、本曲の随所に現れている虚無感は、その証左だろう。
しかし、ここからが面白い。
この『キャラクターT』という曲は、それが意識的にか、無意識的にか、この「愛」を使い分けているのだ。
特に前半では、愛を表す言葉として「ラブ」が多用されている。しかし曲の後半、特にクライマックスに至る転調のあとからは例えば「愛で溢れてるセカイ」というように「ラブ」ではなく「愛」という言葉を用いている。
この差異は何を意味するのか。
「歌詞考察」を標榜している本論にとって、次に述べることは反則的なことかもしれないが、本曲のPVには、ある言葉が置かれている。
「All life is born from love , and nurtured by love」
すべての生命は愛から生まれ、愛によって育てられる。
筆者は、これこそが本曲が用意した「解答」だと思う。
つまり、何者でもないもの、キャラクターを演じることができるようになる遥か前、その存在は、しかし間違いなく「愛」によって育てられた。
「キャラクター」という演技によって「愛」の不在を背負ってしまった私たちは、しかし最初からそのようなことが出来たわけではない。「キャラクター」という操作ができるようになるまえに、「私」を育ててくれた存在がある。与えられたものがある。
これこそが「愛」である、と本曲は訴えている。
私たちは「キャラクター」というのが、あくまでも処世術であることを自覚しなければならない。そして、その人のまえでは演じることさえ気恥ずかしくなる存在が、私たちを生かしている。
キャラクターが愛されることはない。しかし、キャラクターを演じる「私」は、すでに愛されている。
結論:キャラクターを生きるということ——それでもなお
いかがだっただろうか。
本曲の「解答」はたしかに青臭いものかもしれない。しかし、本曲の文脈に則るならば単なる賞賛としての「ラブ」は、いずれ「消費」される。
この曲にある「「最高で最強!」 既にイカれてる」という言葉は、そんな悲劇的な結末を先取りしているように思うのは筆者だけだろうか。
さて、ここまで読んでもらった読者はどうだろうか。あなたには「キャラクター」を捨てられる人がいるだろうか。「キャラクター」の仮面を脱ぎ捨ていることができるだろうか。
この二つの問いに「否」と答えることができてしまった人は、少し休憩した方がいいのかもしれない、とお節介なことを思わずにはいられない。処世のために努力した結果なのだ。あなたは悪くない、と私は思う。
だからこそ、少し時間ができれば、これまでの道程を振り返ってみるのもいいかもしれない。早く走り切るためではなく、長く走るために、休憩は必要だと思うから。
長く走った分だけ、仮面を外せる瞬間も増えていくはずだ。

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