序章:「命の歌」としての読解、その“過剰さ”について
この曲が描くのは「世界」への懐疑なのだ。
『命に嫌われている』は、「死生観」や「命」の在り方を問うているものだと多くの人は思うだろう。それは確かに正しい。しかし「部分的に」と言わざるを得ない、というのが筆者の率直な思いである。
なぜか。それは「命」というフレーズが包含している意味が過剰だからだ。
二〇一六年に発表された本曲は、「紅白歌合戦」で歌われ、今でも多くの人に聴かれている。そんな曲をこれまで取り上げなかったことは、このようなブログで執筆している筆者としては忸怩たる思いだ。
だが幸いなことに、あるいは不幸なことに、二〇二六年の現在でも、本曲に潜むテーマを考察することには意味がある。いや、意味が強まった、というべきだろう。
「世界」への懐疑とは何か。
本論では、この曲がそのような問いを発していることを歌詞内容から明らかにしたあと、前述した「意味が強まった」ということを語っていこうと思う。
第一章:「矛盾を抱えて生きること」は、なぜ「怒られる」のか
繰り返しになるが『命に嫌われている。』は、ある時代、もしくは「生きづらさ」を覚える人たちの「死生観」を歌っているように思える。
具体的にどのようなものなのか。それは一方では「命を大事に」と語り、もう一方ではそんな命をぞんざいに扱う環境を告発する。この矛盾こそが、「生きづらさ」の根源である、というふうに本曲では歌っている。
例えば「死にたいなんて言うなよ。」という冒頭に対し、そのすぐあとに「そんな歌が正しいなんて馬鹿げてるよな」と歌う箇所がそうである。その他にもほとんど暴露ともいえるかのように「軽々しく命を見てる僕らは命に嫌われている」という部分。
酷薄な現実が、さながら「なかったこと」のように、命を、自分を「大切にしろ」とどこからともなくメッセージに「僕ら」は戸惑い、憤りさえ覚えているのだ。
このように歌詞を読み解いていけば、本曲のメッセージは「死生観」、その通奏低音には「命」に対する矛盾した現実への怒りがあるように思える。これは序章で予告したとおりだ。
しかし、このように「わかりやすい」部分だけ拾っていく読み方は、肝心の「命に嫌われている」というのは、どういうことなのかという問いを見失うことになる。故に私たちは、この問題に立ち戻らなければならない。「命に嫌われている」とはどういうことか。
ここで注目したいのは次のフレーズ。「矛盾を抱えて生きてくなんて怒られてしまう」である。この点について、読者諸氏は違和感を覚えないだろうか。ここで「僕ら」を怒ろうとしている存在とは一体なんなのか。
それは「矛盾を許さない存在」である。
言い換えれば、そこではすべてが整合的でなければならない。
——畢竟、それは「無矛盾」とでも呼ぶべきものだ。
こんな想像をしてみよう。その存在は「矛盾」を許さない。「合理性」しか愛せない。そして、この合理性とは計算可能であるという特徴を有する。森羅万象一切は測定可能であり、換算可能で、計算可能なのである。そのような存在が「僕ら」を叱ろうとしている。
だからこそ、次のようにいう。「幸福も別れも愛情も友情も(…)全部カネで買える代物」。
一切は貨幣によって交換可能であり、それはつまり、貨幣によって計測が可能であるということだ。筆者は次のように思う。この「無矛盾」という存在、それは「社会」、いや「世界」ではないだろうか、と。
「矛盾」を許さない在り様を強いてくる存在、一切を計測可能な貨幣へと変換する存在、それをここでは「世界」という。
このことを認めるならば、本曲は、そんな「世界」に対する疑念の表明だということは改めて言うまでもないだろう。
第二章:上位互換だらけの世界で、私たちの生は削られていく
では、なぜそのような「世界」に対して疑念を抱き、それを表明する必要があるのか。歌詞に沿っていうのであれば、「本当はそういうことが歌いたい」の「そういうこと」とは何を指すのか。ここに、私は本論が『命に嫌われている。』という歌を取り上げた理由がある。
そのことを考えるうえで重要なのが「すべて、無駄になるかもしれない」という本曲のフレーズだ。「すべて死ぬ」「どうせ死ぬ」。そうであるならば、生きていることは無価値である。
そして一切が計算可能であるとするのであれば、私たちの行動や将来は生まれながらにして決まっている。そしてそのなかには「命の価値」への計算可能性も含まれている。そんな想像もできる。「すべて、無駄になるかもしれない」という一節は、徹底したニヒリズムへの飛躍を準備してしまう。
しかし、この曲は語る。「君が生きたいならそれでいい」と。「本当はそういうことが歌いたい」という直前に、この一文は置かれている。
ここまで読んでくれた読者にはわかると思う。これは単なる「命」の肯定ではない。これは「矛盾」の肯定である。
「無矛盾」を強いてくる「世界」。故に計算可能性に侵されつつある私たちの「生」、選別され、分断され、値踏みされる「人生」。しかし「どうせ死ぬ」にも関わらず、生きようとする私たち。この「矛盾」の肯定。これこそが『命に嫌われている。』の「そういうこと」の本懐なのだと私は思う。
見渡せば、自分の上位互換など履いて捨てるほどいる。そんな風景が今や当たり前になった。ベストセラーになった『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン)の内容を引くまでもないが、SNSの普及により若年層の自己肯定感は年々下がっているらしい。読者にも思い当たる節があるのではないだろうか。
だからこそ、私は本曲について冒頭で次のように語った。
「本曲に潜むテーマを考察することには意味がある。いや、意味が強まった、というべき」だ、と。
もはや言うまでもないだろう。見渡せば上位互換が無数に存在し、私たちの「生」はいまだかつてないほど毀損されている。私たちの行動の一切を計測する風潮も年々強まっている(『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』ジェリー・Z・ミュラー)。
そんな「世界」だからこそ、本曲は、その価値を強めていっているのだ。
結論:それでもなお、この曲が呼びかけているもの
好きな短歌がある。それは以下のようなものだ。
「もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい」(『サイレンと犀』岡野大嗣)
どれほど「私」という存在が貶められ、たとえ「消えたい」と思ったとしても、その心の奥底は、先の短歌のようなものだと思う。
けれども、まさに今「命に嫌われている」のであれば、本曲はきっとそういう人に届くのだろう。まさに今「世界」に苦しめられているのであれば、本曲はきっとそういう人を救うのだろう。
もしも「世界」が、このままの速度で、このままの進路で、進んでいくのであれば『命に嫌われている。』は、その輝きを増すことになるのだと思わずにはいられない。

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