序章:考察不要の音楽に、なぜ向き合うのか
この曲に「歌詞考察」など、本来であれば不要だろう。
繰り返されるメロディ、反復される歌詞。意味は分解され、文脈は断ち切られ、言葉はただ流通している。そこに読み取るべき「意図」や「物語」など、最初から存在しないかのように見える。むしろこの曲は、そうした読解の欲望そのものを嘲笑うような形式で成り立っている。
だからこそ、この曲は放置されるべき作品なのかもしれない。
しかし、それでもなお、私たちはこの曲に向かい合わなければならない。
なぜなら、本曲ほど露骨に、そして無自覚に、「現代」と「その先」を映し出している作品は、そう多くはないからだ。
ここで描かれているのは、単なるナンセンスでも、実験的な言語遊戯でもない。
意味が希薄化し、主体が溶解し、感情すらも既製品のように流通する時代の、ひとつの「標本」である。
ただし、この曲は一筋縄ではいかない。断片化された言葉のあいだを漂うような感覚。どこにも着地しないまま、それでも確かに「何か」が流れているという手触り。
本曲に満ちているのは、この奇妙な「浮遊感」である。
本稿では、この「浮遊感」に注目する。
それは、意味の崩壊がもたらす空虚なのか。それとも、既存の秩序から解放された軽やかさなのか。その終局において、この曲に浮かび上がるのは、果たして「絶望」か、それとも「希望」か。
その問いを、これから引き受けていきたい。
第二章:テクノとは何か――浮遊する音楽と人間の退化
本曲に漂う「浮遊感」は、単なる印象ではない。それは、音楽的な形式として明確に設計されたものである。ここで注目すべきは、本曲に通底する「テクノ」的な志向だ。
実際、作者自身もテクノを好む旨を語っており、この点は単なる聴感上の印象ではなく、ひとつの論拠となる。だとすれば、この「浮遊感」は、テクノという音楽の系譜の中で捉え直されるべきだろう。
では、テクノとは何か。
その問いに対して、日本において決定的な位置を占めるのが、Yellow Magic Orchestra(YMO)である。
彼らは、最新のテクノロジーを駆使した電子的サウンドに、非西洋的な旋律を重ね合わせることで、独自の音楽を切り拓いた。
ここで重要なのは、その音楽的出自である。
YMOの中心人物の一人である細野晴臣は、かつて「エキゾチカ」と呼ばれる音楽に強い影響を受けている。それは、現実には存在しない「異国の風景」を、あくまで人工的に構築する音楽であった。つまり、テクノとは初めから、現実を再現するものではなく、虚構を生成する装置だったのである。
このとき、ひとつのねじれが生じる。
テクノロジーの進歩は、本来「進化」として語られる。
しかし、その産物としてのテクノポップは、しばしば「人間の退化」をも同時に引き受けてきた。評論家の佐々木敦はテクノポップの歴史について語りつつも「つまり「テクノポップ」の出発点には、進化ならぬ「退化」が(も)あったのでした」と語る。
自動化されたリズム。
均質化された音。
身体性を削ぎ落とされたサウンド。
そこでは、音楽は人間の手を離れ、システムの側へと接近していく。
言い換えれば、人間は「演奏する主体」から、「再生される存在」へと後退していく。
この意味で、テクノポップの歴史は、技術の進歩と引き換えに進行する「人間の退化」の歴史でもあった。そして、その「退化」が極端なかたちで表出したものが、現代においては「ブレインロット」と呼ばれている。いわずもがな本曲のタイトルである。
「ブレインロット(brain rot)」。
それは、「脳の腐敗」「認知の劣化」を意味する言葉であり、現代においては、価値の低いインターネットコンテンツの過剰摂取によって引き起こされる、精神的・認識的な鈍化を指す。
実際、本曲の歌詞には、「用法容量度外視」や「死体のようで脳はHappy」といったフレーズが散見される。それらは、明らかに、情報の氾濫のなかで思考を停止し、それでもなお快楽を享受してしまう状態――すなわち、認知の「退化」を示している。
ここまで見てくれば、この曲は単純だ。
テクノロジーが人間を劣化させる。インターネットが思考を奪う。ブレインロットとは、その帰結である。
――だが、本当に、そうだろうか。
むしろ問題は、ここからである。
この状態は、単なる「退化」なのか。
それとも、別のかたちでの「進化」なのか。
どう見ても退化にしか思えないその現象のなかに、私たちは何を見落としているのか。
次章では、この逆説に踏み込んでいく。
第三章:意識は“オプション”である――退化としての進化
意識の消失、あるいは進化のかたち
前章で見たように、本曲は一見して「退化」の音楽である。
思考は断片化され、意味は希薄化し、認知は鈍り、それでもなお快楽だけが残る。
それはまさに、「ブレインロット」という言葉が指し示す状態そのものだ。
しかし、この現象を単なる劣化として片付けてしまってよいのだろうか。
ここで視点を転じる必要がある。
人間にとって「意識」とは何か。
神経科学者であるアントニオ・ダマシオが指摘するように、意識とは、人間に本来的に備わった絶対的な本質ではない。それは、生存という目的に適応する過程で獲得された、いわば後天的な機能である。言い換えれば、意識とは「オプション」にすぎない。
もしそうであるならば、その「意識」が希薄化し、あるいは消失していくことは、必ずしも退化とは限らない。
むしろそれは、生存という制約そのものから解放されつつある兆候ではないか。
テクノロジーは、環境を制御し、リスクを排除し、人間を「生き延びるために考え続ける存在」から解放してきた。その帰結として、思考は省略され、判断は自動化され、ついには意識そのものが不要になりつつある。
ここで起きているのは、単なる能力の低下ではなく、機能の縮退である。
そしてそれは、進化の一形式でもある。
この構図は、フィクションのなかでも繰り返し描かれてきた。
たとえば、新世紀エヴァンゲリオンにおける「人類補完計画」。
あるいは、伊藤計劃『ハーモニー』が描く未来。
そこでは、個別の主体や意識は溶解し、人間はより大きなシステムの一部として再編成される。
それはディストピアとして語られることも多い。しかし同時に、それは「次の段階の人間像」として提示されてもいる。だとすれば、本曲が描いている状態もまた、単なる崩壊ではなく、ある種の到達点として読み替えることができる。意味を持たず、思考を必要とせず、ただ流れる情報と快楽のなかに身を委ねる存在。
それは、かつて人間が背負っていた「意識」という負荷から解放された姿である。
そう考えるならば、この曲は、テクノロジーが志向してきたもの、すなわち「人間の外部化」と「主体の解体」の、ひとつの成就を描いているのではないか。
テクノの本懐は、ここにある。
結論:その風景は、すでにここにある
その風景は、すでにここにある
ここまで述べてきたことは、決して突飛な想像ではない。
それはすでに、私たちの現実のなかで進行している現象である。
本曲は、そのことを暗喩している。とりわけ象徴的なのが、MVの背景に広がる「リミナルスペース」である。
無人の廊下。
どこへも続いているようで、どこにも辿り着かない空間。
不気味な静けさと、現実からわずかにずれた感覚。
それはしばしば、インターネット的な美学として語られる。
しかし本来、リミナルスペースとは、扉や廊下、階段といった、
「移動」のために設計された空間を指す言葉である。
ここで重要なのは、この「移動」という性質だ。
そこは、滞在するための場所ではない。
どこかへ至るための、ただの通過点である。だとすれば、あの空間の不気味さとは、
「何もないこと」ではなく、「どこかへ向かっているはずなのに、その先が見えないこと」に由来している。
そしてそれは、まさに私たち自身の状態でもある。
意識は希薄化し、思考は省略され、それでもなお、私たちはどこかへと運ばれていく。その移行は、あまりにも緩やかで、あまりにも自然であるがゆえに、ほとんど知覚されない。
だからこそ、この曲に漂っていた「浮遊感」は、単なる音楽的効果ではない。それは、私たちがいま立っている場所そのものの感覚なのである。
――しかし、それでもなお、これまで語ってきたことを、SF的な妄想として退ける向きもあるだろう。
だが、あらためて考えてみてほしい。
かつて夢物語にすぎなかったものが、いつの間にか、疑いようのない現実へと変わっている例を。そう、たとえば人工知能など、その最たるものではないか。
気づいたときには、すでにそこにある。
そして私たちは、それを当たり前のものとして受け入れている。
変化とは、そういうかたちで進行する。
静かに、確実に、そして、ほとんど誰にも気づかれないまま。
参考文献:『ニッポンの音楽』(佐々木敦)

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